コンテンツへスキップ 投稿日:2023年3月18日/更新日:2023年5月8日

ルカ3章1-14節。洗礼者ヨハネの宣教

バプテスマのヨハネ

荒野で叫ぶ声、バプテスマのヨハネ 

一二歳となられたイエスがルカのペンから一端後退し、バプテスマのヨハネ(以下ヨハネとする)の再登場です。イエスの公生涯への備えが進んでいる事を伝えます。主の導きの確かさ、事柄の繋がりを知り、来たる「とき」に備えます。注意深く順序だて進む背後にやがて来る「とき」に思いを注ぐ福音記者の姿勢が現れます。丁寧に、忠実に辿り出来事の真髄に焦点を絞ってゆく記者の情熱が見えます。

章の開始でヨハネの時代を記録します。ローマ皇帝をあげ、イスラエル諸地域の長の名、二人の大祭司の名をあげます。政治、宗教界で敵対する者たちの名です。「そのころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」とあります。敵が囲む、そのころ、のみことばです。

大国に牛耳られた地に、神のことばが下った、とあります。世の権力が諸国を支配する時代です。宗教界でも、神殿とサンヘドリンの影響力で利をむさぼった時代です。人の目には、すべてうまくいっている時代です。そこに、神のことばが下ります。その場がローマ、エルサレム、ワシントン、モスクワ、北京、霞ヶ関でありません。荒野で下ったのです。なぜでしょうか。

支配者の場が、時代を支配していると勘違いする者の傲慢を一撃するメッセージです。宗教界、政界、経済界で築かれた権力の塔からのことばは崩壊します。神抜きのいかなるところにも、悲惨極まりない堕落と荒廃が起こります。このとき、神が、荒野でヨハネを通し語ります。語られる場に聞く価値が宿りません。どなたが語りだすのか、そこに身を置き、聞きます。ヨハネは荒野で聞くべき神に耳を開きます。

悔い改めのバプテスマ

みことばの中身は直後の振る舞いに現れます。「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。」ヨハネの姿に説教者、またキリスト者の在り方に通じるものがあります。敵対する語り始めではありません。リーダーたちを名指しで非難する言葉はありません。とかく、名をあげ非難し、良い気になり、賛同者を集めたりしがちです。人々の悲惨をだしに特定の個人攻撃や人気取り、ポピュリズムの類の口調ではありません。これらいずれの社会活動は時とともに雲散霧消します。

ヨハネは人の道ではなく、もう一つの道、唯一の道を宣言します。神に立ち返る道です。「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。」世の状況に反応した言葉ではありません。個人攻撃ではありません。そうではなく、いつの時代も、どこでも通じる、神のみことばを語ります。人を生かし、この世を変えるみことばです。新時代を切り開くみことばを語ります。イザヤ書の成就です。来るべき方の道備えをし、「こうしてあらゆる人々が、神の救いを見るようになる。」

ヨルダン川でバプテスマを行っていたヨハネのところに群衆が押しかけます。エルサレムに失望し、神殿に見切りをつけたでしょう。生きる答えを見つけることが出来なかったでしょう。都に背を向けヨルダン川のほとりに来ます。絢爛豪華な建物が立ち並ぶ聖都から離れます。国の中心として繁栄する聖都から離れます。みことばが聞けるところに出ます。

ヨハネの迫り

叫ぶヨハネの前に多数の者が列を成します。彼の姿勢は激しく、厳しいものです。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」

ヨルダン川のほとりに来た人々へ、まむしのすえたちです。ここに希望を託す人々へ裁きの現実を突き出します。自分たちの特権を盾にしても裁きから逃れられない真実を伝えます。まむしと呼び、裁きの炎を逃れようと走り回る人々の姿をあらわにします。良い実を結ばない木、ヨハネを聞く者の前に裁きの道具はおかれたのです。裁かれる者は、切られ、倒され、燃やされます。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」の呼びかけがあります。

裁きの現実の直前イザヤ書のみことば「あらゆる人が、神の救いを見るようになる。」があります。あらゆる人が、神の救いを見るということはどのようなことでしょうか。救いを聞くではなく、見る、です。備えられた道を来られる救いを見るのです。間もなく、ヨハネは救いを見た叫びをあげます。その「とき」の備えとして、裁きの現実を語ります。人々を福音へ、救い主へ、イエスに出会う備えをします。

それではどうすればよいのか

群衆はみことばの迫りを無視せず、拒否せず、決死に応答します。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」道を問います。神に聞く者に、神が答えを与えます。与えられているものを独り占めにし、しがみつかず、分かつ者になりなさいと答えます。独り占めの生活を見たでしょう。それを指摘し、悔い改めを迫ります。

取税人たちには、「決められたもの以上なにも取り立ててはいけません。」普段そうしていたでしょう。兵士たちには、「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」権力を我が物顔にふるったでしょう。貪欲からの悔い改めです。自分を神とする罪からの悔い改めです。

やがて救い主は、貪欲を超える道を説きます。「自分のいのち捨てなさい、そしてわたしについて来なさい。」貪欲の根である罪から解き放つ主イエスの御声を聞く「とき」が来ます。主に期待しルカ福音書を聞き続けます。

蕨キリストの教会 戸村甚栄 伝道者

ルカの福音書の解説

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