コンテンツへスキップ 投稿日:2025年4月12日/更新日:2025年4月12日

ルカ9章57節-キリストの弟子になる覚悟

キリストの弟子になる覚悟

十字架の都、エルサレムに近づくにつれ、イエスと弟子たちとの対話は深まります。イエスの使命を託す弟子訓練が続きます。彼らが直面する厳しく、険しい道がいろいろ示されます。厳しさのあまり道から外れる者もいます。その応答を見て、なお弟子の道、キリストの弟子になる覚悟を説きます。神の国にふさわしいのは、イエスに従う者であると語ります。

一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。ルカの福音書9章57-62節 聖書協会

弟子訓練

エルサレムに向かいながらイエスは、弟子訓練を続けます。十字架近くなり弟子たちとの対話が濃くなり、イエスの使命を託す強い意志が現れます。十二弟子の訓練、そして、キリスト者への訓練です。神の国を生きる者の訓練は議論で尽きません。イエスの使命は生活現場で現われます。訓練は生か死か、永遠のいのちと滅びに直結する訓練です。

一行が進む途上でことが起こります。自分なりの道を歩んでいる者たちに、その道を断ち、イエスの道を歩むよう招きます。自分の十字架を負い、生きる道、イエスの弟子となるよう招きます。生まれながらの使命から本来の使命に生きるよう招きます。道であるイエスが路上で対話し、招きます。

弟子の応答

イエスの道に付いてきた者との対話が始まります。これからエルサレムに向かい、十字架に上げられる道の途上、ご自身のすべてを都の方角にかたく据えた路上の対話です。ご受難へと御足を運ぶ覚悟の道で起こる対話です。道を進んでゆくなかで、ある人がイエスに言います。

「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」

イエスについて行きたい魅力があったでしょう。この道を自分も歩いてみたいと思ったでしょう。自分の道が行き詰っていたなら、なおさら、イエスの道への期待は膨らみます。この道に、自分を賭けようと思ったかもしれません。キリスト者は、この人と重なる告白をした者です。あなたこそ私の救い主、私の主、です。あなたのおいでになる所、どこにでもついて行きます。

キリストの弟子になる覚悟 

「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」

道は厳しく、ついて来る者には、それまの生活は保証されません。空の鳥には巣があり、狐には穴があります。それらの創造主でありながら、ご自身に枕する所もありません。罪深き世でイエスには枕する場がありません。憩いどころか、憎しみと拒絶の世です。さらに言えば、みこころを歩むイエスには、眠る間も惜しみ働く日々を示唆しての、枕する所もないでしょう。

イエスに従うことは厳しく、また行く先々に身を委ねた道であると語ります。飼い葉桶から十字架の丘まで、特定の住まいがなくイエスの道は続きます。この道に来ますか、と語り掛けます。枕する所が無いは、あなたは、わたし、イエスを休みどころとするのか、の問いです。わたしに憩いなさいです。返事はありません。

キリストの弟子になる覚悟

新たな対話

最初の対話は終わります。イエスは応答を聞かれたかどうかわかりません。応答は対話した人自身の中にあります。イエスは別の人に語り始めます。

「わたしについて来なさい。」

イエスの道の厳しさを聞いたでしょう。その上で、イエスに招かれます。自分の都合を語ります。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」イエスに魅了され、その道に立っています。いざ、招かれると後退りです。父の葬りの只中にいたならここにいなかったでしょう。この申し出は、将来の葬りについてでしょう。招かれたが家を考えると今はイエスに従えません。最初の枕する所も無い厳しさも影響したかもしれません。

とまどう彼にイエスは「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」

尋常なことばでありません。非常識と非難されても当然です。そうです、イエスのことばは人の常識ではありません。招きは人の常識ではありません。死人たちに、彼らの中の死人たちを葬らせなさい、だけでも常軌を逸したことばです。死の世界に生きる者たち同士で葬りをしなさい、と断言します。そして、あなたは出て行って、とあります。

死の世界から出なさいというのです。死の世界から出ること自体、常識ではわからないことです。イエスに聞くしかありません。自分世界から出て、神の支配に生きなさいとの招きです。神の国を広めなさいです。死の世界から出、いのちの国を広めるよう招きます。イエスの道に歩む者は死を後にし、真のいのちに生きる者とされた者です。彼からの言葉はありません。彼とイエスだけが彼の胸の内を知っています。答は彼にあります。

別の応答

「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」

先の厳しい対話を聞いたでしょう。それでもイエスの道から去らず、神の国を広める使命を聞きます。大いなる挑戦を聞きイエスの前で「主よ。あなたに従います」と告白します。主よ、は、私はあなたのものの宣言です。だから、あなたに従います。あなたが第一です。あなた以外に私を支配するものはありません。あなたの行くところ、私のゆくところです。

その告白で終わりません。「ただその前に、」と彼は、家の者にいとまごいに帰らせてください、と願います。「ただ、」を加え、従いが骨抜きになります。イエスは「ただ、」を幾度も聞いたでしょう。今日においても「ただ、」の言葉を聞きます。「ただ、」が御国への第一歩を遠ざけます。最初は真剣で、みことばを喜びました。しかし、その後、「ただ、」で主の道から逸れます。

神の国にふさわしい

イエスは彼に言われた。「だれでも、手に鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

鋤を握った農夫は真っ直ぐ畑を進みます。イエスの道を歩む者も同じです。唯一の道、イエスについてゆきます。他の道はありません。父の葬り、家の者にいとまごいは、家族との良い関係を現します。イエスは悪い関係を断つことばかりか、良い関係にさえ優先する道があると招きます。イエスの道です。真に良い関係が築かれる唯一の道です。これが弟子の道、選択肢はありません。御国にふさわしく、イエスの道に歩む弟子とされますよう願います。