コンテンツへスキップ 投稿日:2025年4月20日/更新日:2025年5月8日

教会の献金-収入の十分の一は神の御心か

愛による教会の献金

初めて教会にいらした方から「教会の献金はいくら位ですか」という聞かれたことがあります。長年クリスチャンである方々も、同じような疑問を持っているかもしれません。ひょっとしたら、それぞれの教会で献金の相場があるかもしれません。たとえば、収入の十分の一をささげなさいという教えはどうでしょうか。神様の御心は何でしょうか。

十一献金の根拠

多くのプロテスタント教会では、伝統的に収入の十分の一を献金するように奨励しています。聖書的な根拠はあるのでしょうか。管理人の友人でプロテスタントの他教派の方が、「半強制的に十一献金はさせられている」とおっしゃっていましたが、そのように感じる方も少なからずいるのではないでしょうか。

これらの教会は、次の聖句を引用して十一献金の正当性を説き、教会メンバーに献金を奨励しています。

人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながら、どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と、献納物においてである。あなたたちは、甚だしく呪われる。あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと、万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために、天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。マラキ3章8-10節 聖書協会

教会の献金

このような聖句を引用して、十分の一の献金が聖書的であると主張されていますが、読者の皆様はどう思われるでしょうか。ごいっしょに考えてみましょう。

主イエス様の新しい契約の原則

旧い契約では、生活のすべての分野が律法によって事細かく決められていました。「主なる神を愛しなさい」の戒めを、どのようにイスラエルの人々は守ったのでしょうか。唯一の神である主の律法に従い、礼拝をささげ、罪を犯した時には罪の贖いのためにささげ物をささげたのです。神様を愛する象徴として、十分の一のささげ物もしいていました。

また、どのように隣人を自分自身のように愛したのでしょうか。自分が隣人に対して犯した罪、たとえば隣人の持ち物を壊してしまったのような過ちに対して、人は同じように償うように命令されていました。このように、愛の尺度も律法によって定められていたのです。

ところが、イエス・キリストの新しい契約は、旧い契約とはまったく違った性質を持っています。旧い契約のような規則は、新しい契約にはありません。すべての基準が主イエス様にあるのです。新しい契約下において、キリスト者は主なる神を愛するために何を成すべきでしょうか。決まりはあるのでしょうか。旧約聖書の律法である十分の一の献金が、そのままクリスチャンに当てはまるのでしょうか。

旧い契約の時代に与えられた律法や規則は、新しい契約にはありません。一人一人のクリスチャンが、主イエス様をどのように愛すべきかを決めるのです。隣人をどのように愛すかを、主イエス様は良きサマリヤ人のたとえ話で教えています。しかし、具体的な規則によってではなく、「強盗にあった人を助けたサマリヤ人のように、あなたも同じようにしなさい」と戒めています。隣人を愛す方法は、クリスチャン一人一人に任されているのです。

クリスチャンのすべての奉仕のわざは、その人の自由意志によって成されるべきでしょう。誰かに命令されてやるものでしょうか。そのような命令する権威を、教会の誰かが持っているのでしょうか。教会の権威は、主イエス様だけにあると管理人は信じています。主イエス様が定めていないのに、教会の誰かがそれぞれのメンバーの献金の額を、決めることが出来るのでしょうか。そんな権威は、誰一人持っていないと思います。

教会の献金は人それぞれが決めるもの

パウロは、キリスト者の自由の原則を献金にも当てはめています。

つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。 2コリント9章6-9節 聖書協会

キリスト者の献金は、いやいやするものでしょうか。教会の牧師によって強制されてするものでしょうか。パウロは、ハッキリと違うと断言しています。むしろ、一人一人のクリスチャンが心に決めたとおりにするのです。

ある人は、収入の十分の一の献金が御心だと信じて献金をします。またもう一人の人は、財政的に余裕があるために、十分の一以上の献金をしています。また、ある人は収入の十分の一以下かもしれません。

また別の人は「逆に教会の方で献金額を決めてもらった方が、あれやこれやと悩まなくて楽だ。献金は義務だと思っているので、金額を決めてほしい」と考える人もいるでしょう。しかし、これで喜んで献金していることになるのでしょうか。自分で金額を決めなくて、なぜ自分の献金と言えるのでしょうか。

教会の献金は、各個人が自分の責任において決めてささげるべきものです。収入の十分の一の献金をしている人は、信仰によって行っています。そのような信仰によって行われる献金を、お互いに認め合うべきではないでしょうか。キリスト者には自由があるのです。その自由を他の信者が奪い取ることは出来ません。献金の額も自由なのです。

以上、教会の献金について考えてみました。読者の皆様のご意見をお聞かせください。読者の皆様の上に、主イエス様の尊い祝福が宿りますように。

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「教会の献金-収入の十分の一は神の御心か」への2件のフィードバック

  1. メッセージを感謝します。

    私の母教会の牧師は、献金は自分の日当の額で良いとおっしゃっていました。 また、他の教会では「什一献金をしよう」。が週報の標語の中にいつも決まって載っていました。 また、事細かく?収入の十分の一の金額を献金封筒に記入しているような教会もありました。 什一献金をしている教会では教役者の月給が私にとっては高額に感じられ、教会行事なども華やかなイメージで、教会内が充実して潤っているようにも思わされました。 献金収入が多いと教会として施せる額も多くなるのでしょう。 
    旅行好きなクリスチャンが少し自粛?すれば恵まれない飢えに苦しむ子どもたちを助けることが出来るのに、贅沢し過ぎている というような記事を読んだ事もありました。 あるクリスチャンは、旧約時代の什一献金と現代での什一献金では差が有りすぎると、現代は税金が多く、旧約時代とは仕組みが違うから什一献金は現代的ではないとおっしゃっていました。
     また、元社長さんのような余裕のある生活をされているクリスチャンの方でも収入の十分の一の献金はしないと言われてました。
    余談ですが、『聖書に隠された成功法則』松島修 著の中に収入の10分の1の献金で大きな祝福か与えられる 海外では、裕福な資産家ほど積極的に献金(寄付)します。そしてよく献金している人はさらに裕福になります。これも聖書の文化です。、、、収入をひとり占めするのではなく、10分の1を神に捧げることで、さらに神から祝福されるという法則です。、、、マラキ書3:10-11のみ言葉が書かれていました。

    自分に見合った献金額を喜んで主に捧げられると良いですね。

    主が汝と共に在りますように🙏

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