コンテンツへスキップ 投稿日:2024年11月30日/更新日:2025年3月8日

既存のキリスト教とキリストの教えの違い

人間の宗教とカトリック聖堂

「イエス・キリストを信じる」は人間の宗教とは一線を画します。どのよううに人間の宗教とは違うのでしょうか。本物のキリストの教えと既存のキリスト教の違いは何でしょうか。人間の宗教ではない、キリストの教えの本質とは何でしょうか。

上下関係があるキリスト教

イエス・キリストは、キリスト者は主の前にあって、みんな兄弟姉妹だと言いました。キリストにあっては、キリスト者の間に上下関係などありません。天の神様以外に「父なる方」はいないして、キリスト以外に「師」、「先生」と呼ばれる方はいないと宣言しています。

ところが人間が作る宗教はどうでしょうか。キリスト教も例外ではありません。キリスト教と呼ばれる宗教組織・団体にはどこを見ても、ほぼ100%ピラミッド型の組織があります。上下関係が存在するのです。悲しい事実です。キリストがあれだけハッキリ唱えているのに、人間の知恵によって教会内に上下関係をつくり、各キリスト者を縛り付けているのです。

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上下関係がなくてどのように組織を維持していくのか?という疑問が、当然湧いてくるかもしれません。それは確かに人間には不可能な事だと思います。しかし、そこが主イエス・キリストだけが成せる奇跡のわざなのです。主イエス・キリストは、クリスチャンを神の愛によって不思議な共同体を創っているのです。

偶像を礼拝するキリスト教

偶像は目に見えない神様を、見える形にしたものです。それは絵画かもしれません。像かもしれません。仏教の偶像礼拝はよく指摘されますが、実はキリスト教にもあるのです。約2000年前に生まれ、イエス・キリストが、どのような姿、背格好だったのか、どのような容姿をしていたのかは、誰も知りません。残されたものがないからです。

しかし、ヨーロッパのキリスト教では、中世に入りキリストの絵や像が、アイコンとして造られました。また、マリア像も造られてたのです。カトリックの方々は、その絵画や像を拝んでいるのではないと主張しますが、神様はあのような絵画や像を見てどのようにお考えでしょうか。

偶像礼拝は、神様によって厳しく禁じられています。旧い契約においても、新しい契約においても、禁じられているのです。それにもかかわらず、人間が作るキリスト教は、あのような物を堂々と造りあげ、礼拝の助けとして使っているのでしょうか。人間の罪が成せるわざです。

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キリストの名によって人間の権威を誇るキリスト教

人間が作るキリスト教は、キリストの名によって、人間の権威を誇ります。ステンドグラスがある立派なゴージャスな教会堂が建てられています。天井が数十メートルあるような、荘厳な教会堂があります。教会堂の天井や壁には、素晴らしい絵画が描かれています。どれもこれも、莫大な資金によって建てられたこれらの教会は、人間の権威を誇っているのです。

教会堂内は、一流ホテルのように厚いジュータンが敷き詰められ、ホールの両側には数百万円もするようなソファが備え付けられています。何と豪華な教会でしょうか。教会に来る人たちがびっくりするように、神聖な雰囲気を作ろうとしているのです。その神聖な厳かな教会が、教会の権威を象徴しているからです。またそれを見た人たちは圧倒されるでしょう。しかし、そのような人間の権威を象徴している教会堂を見て、天の神様はどのようにお考えでしょうか。

大きな建物の権威、大きな組織の権威の下にいると、我々人間はなぜか安心してしまいます。そのような権威ある教会が、間違っているはずなどないと思い込んでしまうがちです。その人間の思い込みから立ち返って聖書を読んでみると、人間が造る教会とはちょっと違った教会の姿が現れてきます。

人間の権威と知恵から切り離されたキリストの教え

本当のキリストの教え(キリスト教)とは、どんなものでしょうか。人間の高慢やおごり高ぶりは、十字架に打ち付けられました。ですから、キリスト者は、人間の知恵や権威を誇ることは許されていません。キリスト者は、それぞれが自分を捨て十字架を負って、キリストについて行くのです。教会内にはもちろん役割の違いがありますが、それらの役割がは上下関係を生み出すわけではないのです。みんながイエス様の兄弟姉妹として扱われ、すべてのクリスチャンがお互いを主イエス様にあって受け入れあい、支えあう関係にあるのです。また、罪人に過ぎない人を、父と呼んだりすることもないのです。牧師は先生ではなく、他のクリスチャンと同じようにキリストのしもべです。主イエス様は次のように言っています。

それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。マタイ23章1-11節 聖書協会

旧い契約の時代には、神殿が建てられ主なる神がそこに宿ると約束されました。しかし、その旧い契約は終わったのです。人間が建てる建物に神が宿った時代は終わったのです。バビロン帝国が攻め上ってきたとき、実際ユダヤの人々は神殿を誇りに思っていました。神殿があるから滅びることはないと過信していたのです。神への信仰をもたずに人間の栄光にすがっていました(エレミヤ7章1-11節)。その神殿でさえ、神の御心に背いたがゆえに完全に破壊されてしまいました。

主イエス様によって成就された新しい契約下では、神は特定の建物に宿っているわけではありません。ある特定の場所が、聖地になるわけでもないのです(ヨハネ4章)。神の聖霊が宿っている一人一人のクリスチャンが、神の神殿なのです(1コリント3章17節、6章19節)。主イエス・キリストが建てる教会は、建物を指しているのではありません。教会とは、主イエス様を信じる人々の共同体なのです。

神のしもべとなったイエス・キリスト

そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」マルコ10章42-45節 聖書協会

人間はどんな組織を作っても、上に立つ人たちが下にいる人たちを支配しがちです。それがキリストの名によって行われる教会という組織であったらどうでしょうか。偉い人たちが組織を支配する教会?って、神様の御前で存在しているのでしょうか。それは最後の審判の時に判明するでしょう。憐み深い神様は、すべてを受け入れるかもしれません。同時に、主イエス様が警告しているように、主イエス様はその時「あなたたちのことは全然知らない」と言うのでしょうか。主にお任せしましょう。

あなたはどんなキリスト教を信じたいですか。人間の権威によって作られたキリスト教を信じたいですか。人間の権威によってしばれたいですか。それとも、純粋にキリストの教えを信じたいですか。

管理人は他の人が何を信じようが、主イエス様の教えを忠実に守りたいと願っています。もし間違っていることを皆様に伝えているのであれば、主イエス様が私を厳しく鍛錬して正しくてくれるように祈っています。読者の皆様の上に、主イエス・キリストの尊い憐れみと愛が注がれますように。