2000年前、人間の想像を超えたことが起きました。神が人と成られたのです。この信じがたい出来事の記録が、ヨハネの福音書に残されています。どのようにこの事実を受け入れるべきでしょうか。
唯一無二という表現
クラシックカーのマニアが、世界中でたった1台しかないと言われる、クラシックカーを買いました。そして彼は、その車を毎日磨き、きれいに使っていました。そんなある日、この車とまったくそっくりなクラシックカーが、世界中で100台もあったのです。
スポーツの世界や音楽の世界では、唯一無二という表現がよく使われます。能力や技術において、他には存在しないという意味です。確かに名前も違い、姿や格好も違うでしょう。しかし、能力や技量や役割という面で見れば、唯一無二の人と言われる人でさえ、後になってみれば、同じような能力を持った人が出てきます。ですから、この世には、唯一無二の人など存在しないのです。
ことばは神であった
しかし、人類の歴史上、唯一無二の方は、一人だけいました。たった一度きり、二度と現れないような存在、それはイエス・キリストだけです。この記事では、イエス・キリストがなぜ唯一無二のお方なのかを、いっしょに考えてみましょう。ヨハネ1章1-5節をいっしょに読みました。
この聖句は、三位一体の神の存在と創造のわざを説明しています。ことばは、神と共にいて、ことばは神ご自身であったと明確に宣言しています。天にいらっしゃる父なる神、子なる神、聖霊なる神である三位一体の神が、天地万物を創造し、今も天地万物を支配しておられるのです。
しかし霊的に限られた視点しかもっていない私たち人間には、理解しがたい真理です。しかしクリスチャンは、すべてのことを理解して、天の神様を信じているのではありません。もしすべてを理解していると主張する人がいれば、その人は間違いなく偽物であり、悪魔によってコントロールされている人です。
神のことばである聖書は、霊的な世界、目に見えない神の存在を、人間の言葉を使って説明しています。当然、そこには、人間の理解の限界があります。ではなぜ私たちは、信じているのでしょうか。ヨハネ14章1節を読んでみましょう。「心を騒がせるな。神を信じなさい。わたしをも信じなさい」。この招きのことばは、今でも生きています。心が騒いでいる時、私たちは、この世で起きていることで、心はザワザワしていしまいます。外でガタガタ、内ではザワザワの状態です。しかし、こんな時だからこそ、主イエス・キリストに心を向けてみましょう。
ことばは人となった
ヨハネ1章14節を読んでみましょう。三位一体の神であることばが、人となって生まれました。この方は神の一人子なのです。まさに唯一無二の存在です。主イエス様が再臨する世界の終わりまで、このような方は現れません。なぜなら、主イエス様は、神様のことばを語る最後の預言者であるからです。
なぜ神ご自身が、血肉をもった人間と成られたのでしょうか。 第一の理由は、父なる神と人間の仲介者として、イエス・キリストは人間として生きる必要があったのです。へブル2章17-18節を読んでみましょう。
仲介者は、どちらの立場も理解していなければなりません。キリストは100%神であり、神のみことばを話しました。同時に、主キリストは100%人間でした。父なる神様に、イエス様は人間の弱さを弁明してくださったのです。人間の罪の痛みを知るために、主イエス様は、血肉の卑しい体をもって生まれました。
主キリストは、罪を犯しませんでしたが、私たちと同じように悪魔の誘惑を経験しました。だから、私たちの弱さを弁明できるのです。私たちの側に立ち、私たちの弱さを弁明できるのです。私たちは主イエス様を信じ、約束を信じ、主イエスの名によって、新しい人間として清められています。決して、自分の力で生きているのではありません。この信仰によって、私たちは、天の父なる神を礼拝し、罪の赦しを祈ることができるのです。クリスチャンの存在意義は、唯一無二のイエス・キリストによってだけあるのです。
主キリストが人間に現したもの 神の恵みと真理
しかし主イエス様の働きは、これだけではありません。ヨハネ1章17-18節を読んでみましょう。旧約の時代において、イスラエルの人々は神の律法を通して、ぼんやりと神の支配と権威を見たに過ぎませんでした。ちょうどそれは、数万円の料理を写真では見たことがあるけれど、実際には食べていないのようなものです。写真だけでは、想像するだけです。味もわからないし、本当にどれほどおいしいかも知らないのです。
異邦人は、神を信じていませんでしたが、霊的なDNAだけは残っていました。この霊的DNAゆえに、人は神を求めるのですが、間違った方法で求めています。日本には、小さいものを入れれば、数百万の神社仏閣があるでしょう。自分勝手なルールを決めて、自分で作った物を拝んでいるのです。世界中、この罪深い習慣は変わりません。
私たち異邦人は、主イエス様の話を初めて聞いた時に、霊的なDNAが目を覚ましました。主イエス様が示された神の恵みと真理は、手に取ってこれだ、あれだというものではなく、徐々に心に沁みていくように、理解できるものです。素直な心と信仰によって、主イエスに近づき、私たちは祈ります。「どうか、私たちに神の恵みと真理を教えてください」と。このような謙虚な人を、主イエス様を招いているのです。
主キリストの招待状を無視する人間の思い込み
約5か月前くらいに、私は、茨城県にある教会に行って、礼拝メッセージをすることになっていました。その週は連休だったので、車は混むと思い電車で行きました。往復の特急券を買い、無事、教会について、礼拝メッセージをすることが出来ました。多くのクリスチャンの方々と楽しい実りある時間を過ごしたのです。
さて翌日、私はやはり特急電車に乗って帰る途中に事件は起きました。私が座っていると、家族が来て、「そこの席は私たちの席です」というのです。そんなことはないと思い、私は自分の切符を相手の方に見せました。そして、その方は私に言いました。「これって、昨日の切符ですよ」と。その時の恥ずかしさは、言葉に言い表せない程でした。私はすぐに謝罪をして、非常に恥ずかしかったので、その場をすぐに去りました。
「自分だけが気づいていなかった。思い込んでいた」という経験です。私はダブルチェックをしなかったのです。 間違って、1日の往復切符を買ってしまったのです。私がした愚かな間違いは、稀かもしれません。
しかし、主イエス様から頂いている招待状に関していえば、多くの人が見逃しています。私には関係ないと思い込んでいます。ダブルチェックをしていないのです。今日、ここで主イエス・キリストについて、ダブルチェックをしてみましょう。
