キリスト教の教派間で、議論される疑問があります。神の救いのためにバプテスマは必要かという疑問です。ある教派は、「洗礼は救いのために必要である」と教えています。他の教派は、「信仰のみによって救われるのだから、洗礼を受ける前にすでに救われている。洗礼は、救われた者が主イエスの命令に従うために受ける」と主張します。まず洗礼の動機について考えてみましょう。
洗礼、バプテスマの動機は何か
主イエスがバプテスマを受けた時を、バプテスマの動機の例として考えてみましょう。
しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスはバプテスマを受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。マタイ3章15節ー17節 聖書協会
バプテスマのヨハネは、ユダ人たちにバプテスマを授けていました。そこに主イエスは、バプテスマを受けるためにやってきます。ヨハネは一度は拒みますが、主イエスの言葉に促され主イエスにバプテスマを授けます。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言ったのです。この主イエスの言葉に、私たちは学ぶことができます。
バプテスマが必要かどうかを議論するより、主イエス様を信じた人は、神の命令として、主イエス様の名によってバプテスマを受けるのです。正しいこととして行うのです。これは律法ではありません。神を信じ愛しているゆえに、信仰をもっている人は行うのです。後は、神の働きです。
バプテスマは救いのために必要と主張される根拠
主イエス様は、父・子・聖霊の名によってバプテスマを授けるように命令しています。
使徒ペテロは、他の弟子たちと共にエルサレムで聖霊の力を受けて、ユダヤ人たちに福音メッセージを伝えました。その時にペテロは次のように言いました。
悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。使徒2章38節 聖書協会
これらの聖句に基づき、バプテスマは救いの必須条件として考えられています。一方、「バプテスマは救いのために必要ない」と考える人たちの根拠は、どこにあるのでしょうか。
バプテスマは、救いのためには必要ないと主張される根拠
この解釈によれば、バプテスマは、人間が神様に応える「人間の行い」です。人は、行いによってではなく、神様の恵みにより、信仰によって救われます(エペソ2章8節)。ゆえに、バプテスマは救いのために必要はないのです。
また、信じる者は救われるの言葉から、「信仰義認」の神学が生まれました。信仰義認の原則は、神の救いの業からすべての人間の行いを排除します。
イエス・キリストと共に十字架につけられた人に、イエス様は「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言いました(ルカ23章43節)。
この人は、バプテスマを受けずに救いに与ることができました。3点を考慮してみましょう。
- まだイエス様は十字架につけられ死んでいません。また復活もしていません。ゆえにイエス様につくバプテスマを受けることはできません。
- イエス様は、この方の信仰を見てこのように言ったのではないでしょうか。私のような人間が、誰かに向ってあなたは救われていると言えるでしょうか。イエス様と同じ権威を、一人の人間が頂いているのでしょうか。それこそ、神様の救いのわざを人間の働きにしていると私は思います。
- 私自身、他の方々が違った意見をお持ちなのを知っています。そのような親しい友人もいます。しかし、お互いに信仰を認め合っています。最後は、神様だけがご存知ですから、神様にお任せしましょう。
神様の業である救いを、人間の業にしてしまう
「バプテスマは救いのために必要である」と言えば、神様の命令を人間が律法にしてしまっています。1世紀のユダヤ人たちが犯した過ちを、私たちも犯してしまうのです。
その逆に、「信仰のみによって救われる。バプテスマは救いのために必要ない」と言えば、神が命令したバプテスマをないがしろにしています。人間が、救いを宣言しています。
これらの2つの主張はどちらも、神様の働きである救いを、人間の業にしてしまっています。人間が、神様の領域である救いに入ってしまっています。救いは神様の約束です。私たち人間が宣言するものではありません。
クリスチャンは、神様の救いのメッセージを宣言しますが、誰が救われているかを宣言することはできません。それは神様のお仕事です。
では、どのように解釈すればいいのでしょうか。
神様はバプテスマにおいても働いている
神様は、バプテスマを受ける人に働いてくださるのです。使徒パウロは、ローマ6章1‐11節でバプテスマの意義を説明しています。
バプテスマを受ける人は、象徴的に主イエス様と共に死んで葬られ、神様の聖霊の力によって復活するのです。主イエス・キリストを死から復活させた聖霊の力が、バプテスマを受ける人にも働いているのです。
人間が「神様の救いはいつ達成するのか。バプテスマの前か、後か」などと議論すること自体、愚の骨頂です。なぜならば、それは神様の領域だからです。私たち人間がやるべきことは、神様の命令に素直に従うことではないでしょうか。