健全な教会はどんな教会でしょうか。教会はクリスチャンの共同体ですが、教会に行く必要はなく個人の礼拝だけで十分だと考える人もいます。これは神の御心でしょうか。キリストのからだなる教会に属していれば、クリスチャンはキリストのからだなる教会の礼拝に出席するだけではありません。実際にこのようなクリちゃんは霊的に成長していくのです。
キリストが建てる教会でのクリスチャンの成長
今もキリストが建てている、キリストの聖霊が宿っている教会の目的、ミッションは何でしょうか。エペソ4章11-16節を読んでみます。
そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。エペソ4章11-16節 聖書協会
健全な教会に集うクリスチャン一人一人には、神様からそれぞれ聖霊の賜物が与えられていることは明らかです。一人一人が、聖霊の賜物と自分の役割を理解することは、キリスト者の義務でもありまた権利でもあります。聖霊が与える賜物を使わなかったら、その人はどうなるのでしょうか。おそらく、主キリストが望むようには霊的に成長しないでしょう。だから、私たちは一人一人、霊的に目を覚ましている必要があります。
一人一人が受けている賜物の目的は何でしょうか。それぞれの賜物は、教会を建て上げられるために与えられているのです。賜物を神の御心通りに使うことによりクリスチャンは成長し、また教会全体がつなぎ合わされ成長していくのです。
クリスチャンの成長は、人間が支配する教会では起こり得ません。主キリストが支配している霊的な共同体の中で起こるのです。イエス様が愛したように、お互いが愛し合う関係を通して起きるのです。
なぜキリストはご自分の共同体を創ったのでしょうか。それは一人一人のクリスチャンが弱いということを、主キリストは知っているからです。一人一人のクリスチャンが主キリストにつながり、またクリスチャン同士がスクラムを組むようにつながって初めて、クリスチャンは霊的な戦いにも勝利することが出来るのです。このような健全な教会に属しているクリスチャンは、偽預言者や怪しい教えにだまされたりしないのです。
この世で誘惑に会うのは避けられません。なぜなら、悪魔はこの世で活発に人を騙そうとしているからです。だからこそ、私たちは、悪賢い教えや間違った宗教に入ったりしないように、励まし合う必要があります。そのために、教会という共同体が建てられているのです。

日々の礼拝だけで十分?
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。ローマ12章1-3節 聖書協会
上記の聖句を引用して、教会での礼拝に出席する必要はないと主張する人たちがいますが、果たして神の御心でしょうか。冒頭で書きましたが、教会とはイエス・キリストの共同体です。人間が建てた組織でもなければ、人間によって支配されている団体でもないのです。宗教の名によって集まっているサークルでもありません。
キリストの共同体から離れて、主イエス様の一部と言えるでしょうか。果たして、霊的に成長できるのでしょうか。なかなか難しいのではないでしょうか。主イエス様は、キリストの共同体として教会をたてました。本当の教会は、悪魔の力によって打ち負かされることはありません。主イエス様がバックボーンにいてくださり、聖霊なる神様が一人ひとりに宿っているからです。
人間が建てた教会に幻滅を覚え、教会の礼拝に出席したくないと考える方がいますが、それは大きな誤解だと管理人は思います。教会は、人間の権威によって建てられていません。人間が造った組織が、教会を管理することはあってはならないことです。主キリスト自身、「わたしの教会を建てる」と言いました。健全な教会とは、主キリストが中心となって、主キリストが支配している霊的な集まりです。
このような健全な教会では、一般の会社にあるような上下関係はもちろんありません。与えられた賜物によって役割こそ違いますが、すべてのクリスチャンが兄弟姉妹であり、主イエス・キリストのしもべなのです。そのような神の御心に適った教会で礼拝をささげることは、神の命令です。

クリスチャンが教会での礼拝を怠っていると、どんなことがその人に起きるのでしょうか。主イエス様は、このような人を砂の上に家を建てた愚かな人になぞらえて説明しています(マタイ7章24節)。人生の嵐が来た時には、もろくも崩れてしまうような人なのです。礼拝をおろそかにしている人は、物の見事に奈落の底に落ちてしまうかもしれません。
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。・・・霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。へブル12章5-11節 聖書協会
人生の嵐や試練は、神様の懲らしめであることがあります。この世で生きている間に、神様の懲らしめが与えられれば、まだ望みはあります。なぜなら、それは神様が与える試練だからです。試練を経験して悔い改めるように、神は望んでおられるのです。
そうならないように、今一度、主イエス様が建てている健全な教会について考えてみませんか。教会での礼拝に出席してみましょう。聖霊の力を借りて祈りましょう。主イエス様の尊い祝福が読者の皆様の上にありますように。
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