コンテンツへスキップ 投稿日:2022年7月11日/更新日:2025年5月14日

教会の役割と存在意義-エペソ3章10節

古代ローマ帝国の神殿

神様の救いの計画のなかで、教会の役割と存在意義は何でしょうか。教会に幻滅しているクリスチャンがいるかもしれません。しかし、もし主イエスが建てている教会であれば、クリスチャンはそのような教会に属すべきだと思います。同時に、主イエス様が教会に与えている役割に貢献すべきだと思います。

ペテロが信仰告白した後、主イエス・キリストはご自分の教会を建てると言いました(マタイ16章18―20節)。主イエス・キリストは、キリストの体である教会、すなわちクリスチャンの共同体をお創りになりました。強調点は「キリスト」に置くべきだと思います。教会あるいは集会に強調点が置かれれば、それは人間の産物に過ぎなくなってしまうでしょう。キリストが頭であり、キリストの支配がある共同体が、本物の教会ではないでしょうか。その教会の役割とは何でしょうか。

教会の役割

神の知恵を知らしめる

こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。エペソ3章10-11節 聖書協会

使徒パウロは、「天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示される」と書いていますが、神の知恵とは何でしょうか。エペソの手紙の文脈では、神の知恵は、ユダヤ人も異邦人もすべての民族が、神の救いの計画にあずかることを指しています。神の救いを受けるのに、人種や民族の差、貧富の差、性別の差などありません。

しかし、神の知恵にはもう一つ別の意味があります。その知恵とは、神の一人子である主イエス・キリストが、十字架上で死なれたことによって示されました。神の子である方が、死刑囚として力なく十字架刑にされたのです。人間の罪を贖うために、罪のいけにえとして、主イエス・キリストは死なれました。キリストの十字架は、人間の目には茶番に見えるかもしれません。しかし、天にいらした方が人と成られ、人のために犠牲になりました。キリストの十字架に、神の愛と知恵が示されたのです。神様は、この知恵と愛をこの世に知らしめる役割を教会に与えています。

主キリストの福音を宣べ伝える

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイ28章18-20節 聖書協会

主イエス・キリストは、十字架の死からよみがえられた後、弟子たちの目の前に幾度となく現れました。天に行く前に、主イエス様は教会のミッションを明らかにしました。まず第一に、天地万物の権威は、すべて主イエス・キリストにある、とこの世の中に向けて発信することです。

この世の中は、罪で満ち溢れています。日々、人々が傷つけられ騙され、世界中のどこかで殺人事件が起きています。子供は、正しいことをするように教えられる必要がありますが、悪いことをするように教える必要はありません。悪魔の働きかけにより、人は必ず悪をするようになるのです。このような罪深い世の中で人々は苦しみます。その人々に、主イエス様の愛を語り伝えるために教会は存在しているのです。具体的には、キリストの戒めを聞く人々が、主イエス様の弟子になるようにお勧めします。

教会の役割

クリスチャンが弟子として成長する

教会の役割は、人々に福音を伝えてバプテスマを授けることだけではありません。教会は、クリスチャンが主イエスにとどまり実を結ぶように促します。お互いに励まし合い、支え合い、切磋琢磨して霊的に成長していくように助けるのです。

キリスト教には、様々な教派があります。その違った主義主張によって、クリスチャンは振り回されがちになります。ネットの時代において、人は不特定多数の名前も素性もわからないような人から、間違った教えや情報を受ける危険性をもっています。聖霊に満たされた健全な教会は、このような情報過多からクリスチャンを守ることができます。小グループの聖書の学びにおいて、お互いに啓発をしあい聖書を学ぶのです。このプロセスを通して、クリスチャンは主イエス様の愛と戒めにとどまることができます。

教会の役割

健全な教会は、常に主イエス様に目を向けます。クリスチャンは、教会のリーダーたちの声を聞くことも大切ですが、それには条件があります。

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。へブル12章1-2節

あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。へブル13章7-8節 聖書協会

教会のリーダーたちの信仰を見倣いなさいと命じられていますが、その続きを読んでみればこの戒めが条件付きであることがわかります。そのリーダーたちは、主キリストから離れては指導はできません。教会のメンバーであるクリスチャンは、常に主イエス様に目を見据えて、教会リーダーに従うのです。リーダーたちも罪人であり間違いを犯すかもしれません。リーダーも他のクリスチャンも、主イエス様にあってお互いに切磋琢磨して、はじめて霊的に満たされた教会になり、そのミッションも遂行できると思います。

教会がそのミッション、目的を忘れたら、教会でなくなってしまいます。教会の存在意義がなくなり、いずれ消えていくかもしれません。教会は地の塩です。教会から塩けをとったら何の役に立つでしょうか。捨てられて踏みつけられてしまうだけだと、主イエス様は言っています。この事実を覚え、日々祈り、教会の奉仕に励んでいきましょう。

コメントは、管理人が承認後に表示されます。保留中になります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

  • 読者の皆様の情報は、固く守られ外部に漏れることは決してありません。コメントは、管理人が承認後に表示されます。良識あるコメントをお願いします。