キリスト教は日本ではマイナーですが、「クリスチャンの生き方は、どんな文化でもどんな国でも本当にカッコイイセンスの良い生き方である」ことを説明します。クリスチャンの生き方はかっこいい? なぜ?って思いますよね。もちろん変な宗教まがいのキリスト教は論外です。そうではなくて、イエス・キリストに従って生きていくって素敵な生き方なのです。
目次
人間について不思議に思う事2つ
人間について不思議に思う事、2つがあります。1つ目の不思議は、どんな社会でもどんな文化でも、誰もが正義を望んでいることです。ヤクザでも正義を求めてるという事をご存じでしょうか。その狭い枠の中ですが、ヤクザさんたちの正義と仁義があるのです。
2つ目の不思議は、正義を望んでいるがゆえに、どんな時代でもどんな文化でも、人間は正義の味方を求めている点です。正義の味方は、容姿も人格も兼ね備えたカッコイイ人物です。映画やテレビドラマのヒーローを考えてみてください。ヒーローの特徴について、本当のヒーローはカッコイイいいのです。
どの分野においても、カッコイイヒーローには次のような特徴があります。まず、彼は高い道徳基準と誠実さを持っています。第二に、彼は正しいことを行うという強い決意と信念を持っています。第三に、彼は自信と謙虚さを兼ね備えています。 4つ目は、彼はとても忍耐強くどんな悪にも負けません。だから他の人たちは、このヒーローに正義を行うように期待し信頼するのです。最も重要なことは、彼が無私無欲であり、他人のために自分を犠牲にすることを厭わないのです。
この混沌とした世界、狂っている世の中において、どの国のどの文化においても、ヒーローを求めるているのは不思議だと思いませんか。例外はありません。なぜ私たち人間は正しい人が勝つことを望むのでしょうか。なぜなら、神によって創造されたすべての人間の魂は、正しいことをしたいという心の奥底での望んでいるからです。しかし、私たちの罪深い性質のために、私たちはその逆を行っているのです。
私たちが賞賛する人間のヒーローは本物ではありません。これらのヒーローたちは皆、私たちと同じように欠点を抱えています。人間が崇めるヒーロー、スポーツ選手でも芸能人でも、あるいは医学や科学技術で大成した人たちも、他の人と同じように弱い人間なのです。憧れのヒーローは人間の幻想に過ぎません。
私たちが崇める英雄的な人たちは、みんな欠点と短所を持ち合わせている罪深い人間に過ぎません。多くの間違いを犯します。彼らは皆、人生に暗い側面と否定的な側面を持っています。私は、エイブラハム・リンカーンやマーティン・ルーサー・キングのような有名で尊敬される人々の自伝や伝記をたくさん読みました。彼らは皆、暗い側面を持ち、罪深い性質と格闘していたのです。
彼らを自分のヒーローとして崇拝しているなら、彼らが実際の生活をどのように、どのように送っていたのかを読んでみてください。衝撃を受けるでしょう。この人たちは、多くの弱点と欠点を抱えた生身の人間でした。

キリストに従うことがなぜ一番なのか
人間のヒーローではなくて、イエス・キリストに従うことがなぜ素晴らしいのかを考えていきたいと思います。主に従うことが最善の生き方であるのはなぜかを説明します。
私たちがイエス・キリストに従うとき、神様は、私たちに多くの素晴らしい人格的な素養を与えてくださいます。そのうちの 2 つは、クリスチャンの性格にとって特に重要です。それは謙虚さと自信です。
私たちが生きる世界では、謙虚さと自信は相反する性質です。 人は自分自身と自分のスキルに自信を持っていると、自分自身を誇りに思うようになります。謙虚なままにいるのが難しくなります。このような人は、他人を見下し、自分を自慢してしまうかもしれません。そんな傲慢な人は誰も好きではありません。そのような人がたとえ素晴らしい能力を持っていたとしても、誰もそのような人を憧れの人としては扱いません。高慢な自慢話ばかりしている人を、私たちは嫌います。
しかし、逆に謙虚な人はどうでしょうか。他の人より優れていると思っていると、私たち人間は謙虚のままでいるのが(不可能ではないかもしれませんが)非常に難しくなります。自己評価は、常に他人との比較でなされるからです。他の人と比べて自分が優れていれば、優越感につながります。その逆に劣っていれば、劣等感になってしまうでしょう。
謙虚とは何でしょうか。「自分には何もできませんから」のような態度が謙虚と思われがちです。謙虚であることは、一般的に自信のなさを意味します。このような人は、自己イメージが低いのです。他の人はこのような人を「頼りにならない信頼できない」と見るかもしれません。実際、このような人は他の人のために、積極的に動かないかもしれません。このような人を私たちは尊敬するでしょうか。憧れるでしょうか。
クリスチャンの生き方-謙虚さと自信は共存する
しかし、イエス・キリストに従うなら、謙虚さと自信は両立し互いに補完し合っています。イエスはマタイ 5 章 3 節で、「心の貧しい人たちは幸いである、天の国は彼らのものだからである」と言われました。
心の貧しい人は自己嫌悪、劣等感の人ではありません。しかし、心の貧しいクリスチャンは、神様の力、愛、恵み、憐れみなしでは生きていけないと神に告白します。このような人は、主イエス様とともに正しく生きるためには、自分が 100% 神様に寄り頼んでいることを自覚しています。クリスチャンは、神様の恵みなしで主イエス様につながっていなければ、自分では何もできないと告白できる人です。
わたしはまことのぶどうの木、・・・わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。ヨハネ15章1-5節 聖書協会
私たちの主であり救い主であるイエス・キリストは、これまで地上に生きた中で最も謙虚な方ですが、同時に、どんな状況においても正しいことが出来る勇気ある方です。主キリストは、私たちの自由意志を認めます。力づくで従わせようとしたりしません。常に忍耐強く接してくれる方です。主イエス様は、私たちを圧倒する権威を持っているにもかかわらず、私たちを圧倒しません。これが、イエス・キリストが私たちのヒーローである理由です。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。マタイ11章28-30節 聖書協会
私たちは、主イエス様の謙虚さと柔和さ、信仰と信念、そして愛と優しさの両方に倣います。謙虚さの本当の試練は、人生のさまざまな形で起こります。 他の人があなたを侮辱したらどうでしょうか。そのような時でも、主イエス様に従うクリスチャンは、人の侮辱や中傷を無視できるのです。受け流すことが出来るのです。主イエス・キリストは、ユダヤ人たちの攻撃と迫害に打ち勝ちました。私たちは、主イエス様の模範に倣うのです。

謙虚な人がなぜ自信を持てるのか
謙虚な人がなぜ自信を持ているのでしょうか。自分の罪を謙虚に告白する人は、主イエス様から力と知恵の祝福を受けることができるから、自信を持てるのです。
そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。マルコ 11章21-24節 聖書協会
キリストは、ご自分に従う人たちが、どのようにして自分に自信を持つことができるかを説明しています。クリスチャンは、神様があらゆることを可能してくださると信じています。この信仰によって、クリスチャンは自信を持てるのです。しかし、これは自分自身の能力や力や知恵に自信を持っているのではありません。素晴らしいことを成し遂げたとしても、自分を誇りに思うことはないのです。むしろ、その誇りは主イエス様にあるのです。
クリスチャンが受け取るすべてのスキル、すべての能力、すべての力と強さは、神様から来ています。主イエス様を信じる信仰によって、クリスチャンは強められ自信をもち、それでも謙虚な態度を持ち続けることが出来るのです。
かっこいいセンスの良い生き方
クリスチャンになるのは、誰にとっても素晴らしいことです。なぜなら、私たちは皆、神の似姿に創造されているからです。すべての人間は神様の創造物であり愛されています。
主イエス様は、私たちが主に従い喜びに満ちて平和に人生を送れるように招いています。主イエスのくびきを負うよう勧めておられます。使徒パウロは、自分の人生について次のように書いています。
以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。テモテ第一 1章13-14節 聖書協会
誰にでも、この人生をもう一度やり直す二度目のチャンスがあります。パウロはかつてクリスチャンを迫害し、何人かを死に至らしめました。しかし彼は、自分が不信仰の中で無知な行動を取っていたことに気づきました。パウロは、主イエス・キリストを信じ平安と喜びの中で暮らし始めました。謙虚でありながら信仰に裏付けされた確信をもった人生を送れたのです。
今日の世界は、混迷、混乱、混沌で満たされていると言っていいでしょう。皮肉なことに、人間は、自己嫌悪と他人嫌悪を同時に持ってしまいがちです。多くの人たちが、毎年、自らの命を絶ちます。同時に、他人をゴミのように扱い、蹴ったり、殴ったり、投げ捨てたり、最悪の場合は殺してしまったりする事件が、あちこちで起きています。世界と社会全体がこの方向に進んでいます。私たちの世界は、争い、欺瞞、高慢、不従順、愚かさ、不信仰、無慈悲、そして横柄な世界です。この人間の本性は、最終的には私たちと全世界を滅ぼすことになります。これは私たち人間が本来あるべき生き方ではありません。
主イエス様のお招きに答えてみませんか。読者の皆様も主イエス様を信じて、素晴らしい人生、かっこいい人生を生きてみませんか。読者の皆様の上に、主イエス様の尊い祝福が宿りますように。
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長文のメッセージを感謝します。
クリスチャンでセンスが良くて格好いい人は、有名人だとアンミカさんを直ぐに思い浮かべたのですけど、確か洗礼名がモニカだったとネットで知りました。
イエスさまを信じている人は、謙虚さもありながら、信仰という筋が一本通っていて、イエスさまに信頼している自信、安心感、余裕があるのだと思います。 揺るがない主イエスの土台というか、、、岩の上に家を建てた人のようで地震が起こったとしても被害が最小限であるという例え話かのように、何かアクシデントが起こっても冷静沈着に対処出来るようになるのではないでしょうか、、。 真実な全能の神様に信頼するということが、平安への近道だと信じます。
Shalom
コメントありがとうございます。主に感謝します。
生き方はいろいろありますが、それでも主イエス様を信頼して生きて行くのが幸せへの道だと信じてます。