パリサイ人は、戒律を守ることによって正しい人になれると考える律法主義者でした。古代ユダヤ教が確立されもっとも隆盛を誇っていた時代に、主イエス・キリストは宣教を始めました。古代ユダヤ教にはいくつかの教派がありましたが、その一つがパリサイ派でした。主イエス様はパリサイ人の義にまさるように戒めました。主イエス様が教える義とは何でしょうか。
言っておくが、あなたがたの義が律法学者やパリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。 マタイ5章20節 聖書協会
律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、天の国に入ることはできないとハッキリと言いきります。一般のユダヤ人たちにとってみれば、かなりこれはショックなことだったと想像されます。なぜならば、律法学者とパリサイ人たちは、当時のユダヤ教の権威ある先生であったらからです。1世紀のパリサイ人の義にまさるために、私たちは何をなすべきでしょうか。天の御国に入るために、キリストの教えをしっかりと理解し実践していきましょう。
パリサイ人の義
律法は、イスラエルの人々を律法的に従う事で縛り付けることが目的ではありませんでした。神様は、律法と言う手段でイスラエルの民と契約を結んだのです。しかし、1世紀のユダヤ人たちは神様の御心をまったく理解していませんでした。彼らの解釈に基づいた新しい規則、律法に準ずる規則を作ったのです。
古代ユダヤ教の律法解釈の伝統と言い伝え。ミシュナは、モーセ5書の律法、実生活に伴う律法に関する解釈本。6つに分けられ63の本がある。ヘブル語で書かれている。ゲマラはミシュナを解説している本。律法を注解するプロセスをミディラシュという。律法の解釈本(ミシュナ)+ミシュナの注解本(ゲマラ)=タルムド
ユダヤ教の律法学者やパリサイ人たちは、律法を守るにはどうすればいいのかを、自分たちの解釈で定めたのです。それらの解釈が、権威ある口伝律法として取り扱われていたのです。ユダヤ教の文献では、これらはタルムード(ミシュナとゲマラ)と呼ばれています。
ユダヤ人教師たちは、自分たちの伝統を守るために、神の御言葉をないがしろにしていました。彼らは、彼らの解釈によって律法を儀式的に守っていましたが、信仰の行いではなかったのです。清めの儀式と安息日を守る自らの行いによって、自分自身を正しいとする自己義認だったのです。彼らは、神の義に飢え渇くのではなく、自らの義を追い求めていました。律法を単なる儀式として捉え彼らが決めた規則に基づいた儀式の行いによって、自らを義としたのです。ですから、人がどんなに罪深い事を考えていようと、かれらの義には関係ありませんでした。
イエス・キリストは、このようなユダヤ教の背景のもとに弟子たちに、律法学者とパリサイ派の人々の義にまさるように戒めたのです。21世に生きる私たちにも、この戒めは語り掛けています。

キリストによって生きる
ではどのように、律法学者とパリサイ人たちの義にまさることが出来るのでしょうか。次のように考えている人はどうでしょうか。「私は毎週の礼拝に行っています。もちろん、聖書を毎日読み祈りもささげています。献金もささげています。他の人たちはクリスチャンであると言っても、復活祭の礼拝にも来ない。神様、私はあのような罪深い者ではないことに感謝します。」はたして、このような人がパリサイ人の義にまさっているのでしょうか。むしろ、パリサイ人とあまり変わりがないように、管理人には思えます。
クリスチャンがキリストの弟子であり続けるには、神を心から愛することと隣人を自分のように愛するのは必須条件です。この2つの律法を守らずして、教会の礼拝に出席しても聖書の学びに参加しても意味はありません。律法学者たちとパリサイ人たちと同じ過ちを犯しています。
神を愛すると隣人愛を具体的に実践する例は、どこにあるのでしょうか。その実践例が、マタイ5章-7章に書かれているのです。心の貧しい者になり、自分の罪深さを悲しみ、心から神様に祈り求めること、、、これが神を心から愛する第一歩です。
では隣人愛はどうでしょうか。主イエス様がマタイ5章43-48節で戒めているように、敵をも愛し自分を迫害する人のために祈るーこれが神が教える隣人愛です。人を裁くのではなくて、憐れみ深い者になるのが、隣人愛の実践ではないでしょうか。

純粋な信仰と素直に従順
律法学者やパリサイ人たちは、律法と言い伝えを守ることに、自らの存在意義を感じていました。律法に信仰を持っていました。しかし、クリスチャンは、神のみ前で心が貧しい者として、神にひれ伏し祈ります。クリスチャンの信仰は、砕かれた心の信仰です。
神の御国と義を素直に求める従順さも、クリスチャンは持っているのです。この信仰と実践は、単なる儀式的な行いではありません。主なるイエス・キリストを愛し慕い求める信仰によって、クリスチャンは神の御国の中で生きているのです。このようにして、クリスチャンは、パリサイ人が誇っていた形式的な宗教儀式による義ではなく、主イエス様を信じる信仰によって義とされているのです。
最後に、一番重要なことを明らかにしておきます。クリスチャンは、神の御国の中で成長していきますが、この成長のプロセスは、神様の働きなのです。主イエス様を信じる信仰によって、またあ神様の聖霊によって、クリスチャンは日々新しく生まれ変わっているのです。
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