ストレスが溜まる生活をしていて、些細なことで怒ってしまったという経験はないでしょうか。そんな時は、家族や友人に怒りの感情をぶつけやすいものです。管理人も恥ずかしながら、何度もそのような罪を犯しました。怒りは七つの大罪ともいわれますが、過言ではありません。怒りの罪の深刻さと怒りの罪の悔い改めについて考えます。
殺人の罪について
あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。マタイ5章21-22節 聖書協会
殺人は、どんな文化においても罪です。旧約聖書も例外ではありません。出エジプト記20章13節には、「殺してはならない」と書かれています。1世紀のユダヤ人たちは、もちろん、このような罪を犯しませんでした。ですから、彼らは安心もして、神様にあって義と認められていると考えていたのです。私たちも同様に考えているかもしれません。
主キリストは、この教えの本当の意味を説明します。ユダヤ人たちがまったく予想もしなかったことを言ったのです。ユダヤ人たちは驚いたに違いありません。もしこれが本当であれば、誰が神様の裁きから逃れることが出来るでしょうか。
この聖句を文字通り読めば、腹をたて人をバカ者、愚か者と呼んだりすることは、殺人の罪に等しいと解釈できます。とはいっても、人間の目からすれば、実際の殺人の方が罪は重いのです。なぜ怒りが、殺人に値するような罪なのでしょうか。
神様の御心にある罪の本質
主キリストは、怒りと殺人を関係づけています。私がこの聖句を初めて読んだ時、これはちょっと大げさだなと思いました。主キリストは、殺人の罪を3つの方法で説明します。一つは、怒り、2つ目はバカ者といって侮辱すること、3つは愚か者ということ。私たちの霊的な殺人には、3つのレベルがあるのでしょうか。神様の裁きにも3つのレベルがあるのでしょうか。そんな事はないと思います。主キリストは、私たちが様々な方法で人の心を破壊してしまう事を明言しているだけです。
ユダヤ人たちは、律法を表面上だけで従っていました。人間が作る宗教にはありがちな事です。このような間違った宗教観をキリストは、指摘しています。
ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。マタイ23章26-28節 聖書協会
見える所、外側を繕い自分の罪を覆い隠し、善人を装う人は偽善者であるとキリストは断言しています。このような宗教的偽善を明らかにしています。怒りの罪が殺人にも等しい罪であると解き明かし、罪の本質を教えているのだと思います。罪は、心の状態を示しているのです。どんなにキリストの教えに従っていても、動機と心が間違っていたら、主イエス様は私たちに何を問いかけるでしょうか。
罪は、行動によっても心の内でも犯されます。怒りは、人間の心と思いから出てきます。言葉による罪は、私たちの内面から出てくるのです。
怒りと人を傷つけること
怒りは、人間の感情を表す方法でもっとも最悪のものです。怒りや口での暴力は、何も良い事をもたらしません。常に悪い結果を生み出します。
管理人は、教会の仕事を始めてから、人間関係で苦しみ、傷つけられた人に大勢会ってきました。ある人が私に次のように告白しました。「彼が私に言ったことを思い出すと、今でも心が痛みます。忘れられません。」彼の心には未だに傷があるのです。心に傷があり、その人はまだ完全に癒されていません。
このような理由で、主キリストは言葉の暴力の罪と殺人が同様に罪深いと言っているのではないでしょうか。殺人は、肉体的に命を殺します。怒りと言葉の暴力は、メンタルな面で霊的に命を殺します。両方とも、神様の御心では同じ罪であると教えられています。
しかし、人間の観点から言えば、実際の殺人と怒りや言葉の暴力には、大きな違いがあります。一つには、殺人を犯せば刑務所に行く事になります。怒りを露わにしても、刑務所に行く事はありません。これは私たちにとって大きな違いです。しかし、一つ大事な事を忘れてはなりません。怒りや言葉の暴力には、殺人と同じように永遠なる結果が伴います。怒りがもたらす永遠の裁きは、殺人と同じなのです。裁きの日に、私たちがどんなことを言ったのか、人を傷つけるような事を言ったのかによって、神様は私たちを裁きます。
言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」マタイ12章36-37節 聖書協会
ほとんどのクリスチャンは、裁きの日に、自分は殺人の罪など犯したことがないと言えるでしょう。しかし、人を嫌った事などない、人に対して怒ったことない、バカにしたことを言ったことがないと言える人はいるでしょうか。
わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。 同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。ヤコブ 3章節-10節 聖書協会
ヤコブは、話し言葉の力について説明しています。私たちは、言葉で神を賛美し神を言葉でほめたたえます。同じ口から出てくる言葉で人を呪ってしまうことがあります。だから、「舌は火であり不義の世界」になりうるのです。
私たちの言葉は、人を傷つける強力な武器になります。人の心を破壊してしまう殺傷能力があるのです。この罪の重さも知らずにある人は、「善意で言った言葉なんだけど…」と言うかもしれません。ですが、善意かどうかは問題ではありません。怒りの言葉も皮肉を込めた鋭い言葉も、心に刺さります。きつい言葉です。ある人の心には、その言葉が突き刺さったままになっているのです。

怒りは自分自身を傷つける
ガラガラヘビは追い詰められると怒り狂って、誤ってその致命的な牙で自分自身を噛んでしまうことがあると聞いたことがあります。自分の毒でも死んでしまうのです。それと同じように、人が心に憎しみや恨みを抱いていると、しばしば自分の悪意の毒によって傷つけられるのです。
怒りを表すことによって、敵を打ち負かすと考えますが、本当の傷は、自分自身の心につけられてしまうのです。これは私たちの人生の真実です。しかし、ほとんどの人は、何かにまたは誰かに怒りを持っている時は、この事実に気づけません。怒りを表すことは、常に後悔をもたらします。これは人間の弱さでもあるのです。
自分自身の人生を思い起こしてみましょう。酷い事を言ってしまった瞬間を思い起こしてみましょう。管理人も、自分の口からどのように怒りが出てきたのかを思い出し、もう二度と同じ過ちはしまいと悔い改めています。
ある若い男性が、父親に怒りの手紙を書きました。彼の怒りは煮えたぎっていたのです。そして、その手紙を投函するように、彼の友人に頼みましたが、その友人は、止めておいたほう良いよとアドバイスしました。なぜなら、それが一時的な怒りで書かれた手紙と知っていたからです。その友人は、ポストに入れずに自分のポケットにしまっておいたのです。翌日の朝、怒りの青年は後悔していたのです。そして、友達に言ったのです。「昨日、あんな手紙を送らなければ良かった。自分自身が傷ついているんだ。お父さんがあの手紙を読んだら、お父さんの心は傷つくに違いない。どうしよう?」と泣きそうな顔をしました。友達は、ポケットから手紙を出して、彼に渡しました。彼はどんな気持ちだったでしょうか。喜んでホッとしたのです。
怒りは、私たちが自分の感情を表す一つの表現方法です。人間が持っている本質の一部です。しかし、神様の方法でコントロールされるべきものです。主イエス様だけが、正しい方法で正しい理由で、怒りを現しました。
主イエス様の怒りと私たちの怒りの罪の違い
主イエス様は、公の場所で怒りを露わにしました。神殿を清め、そこでお金儲けをしている商売人を神殿から追い出しました。ユダヤ教の律法学者たちの頑な心を見て、主イエス様は怒りの目で彼らを見ました。主イエス様は、罪に対して、不義に対して怒りを持ったのです。自分のエゴや虚栄心で怒りを持ったわけではありません。主イエス様は、人々に侮られ、バカにされても、唾を吐きかけられても、自分の敵に対して仕返しはしませんでした。
私たちは、人の侮辱に対して怒りで反応してしまいますが、主イエス様は違うのです。私たちは、どのような時に怒りを覚えるのでしょうか。
ちょっと正直に認めてみましょう。多くの場合、私たちは、個人的に攻撃されたら怒りを覚えます。しかし、他の人に悪が降りかかっても個人的な怒りは持ちません。この問題は、私たちの偽善の根っこにあるものだと管理人は思います。
2人が聖書の解釈について議論していました。その二人の話は白熱していました。話が進むにつれて、自己主張の応酬は終わりませんでした。この2人は、まったく同じことを考えていたのです。「自分が正しく相手は間違っている。相手は、個人的に攻撃している、人格否定までしてくる」と考えていたのです。
一方の人の怒りがこみあげてきて怒りを爆発させました。この人は、「自分は真理と正しい事を守っているんだ」と自分に言い聞かせましたが、実の所、自分自身を守っているに過ぎなかったのです。このような事は、もっとも優秀で頭がいい人たちの間でも起きます。彼らは聖書を子供の時から勉強して、聖書を専門的に学ぶために神学校にも行った人たちです。
悔い改めて神様の恵みによって生きる
私たちは間違った理由と動機で、物事や他の人に対して、怒りを覚えることがあります。この愚かさを自覚して悔い改めましょう。私たちの罪深さと至らぬ所を率直に告白した後、神様の恵みを必要としていることを、主イエス様の名によって素直に祈りましょう。自分の心にある怒りの根っこを主イエス様に告白すれば、主イエス様はその根っこごと引く抜いてくださるでしょう。
主イエス様は、今も2000年前に弟子たちに言ったように私たちに言っています。「十字架を負って、私について来なさい」と。ですから、私たちは、また一からの出直しで、主イエス様について行きましょう。日々、悔い改めの心のもち、もう一度始めから、聖霊によって生まれ変わるつもりで主イエス様に従いましょう。主イエス様の尊い恵みが、読者の皆様の上に宿りますように。
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