コンテンツへスキップ 投稿日:2022年6月28日/更新日:2025年4月26日

マタイ5章38節-目には目を歯には歯をの意味

両手を握り祈る女性

マタイ5章38-42節、目には目を歯には歯をの意味は何でしょうか。「やられたらやり返す」が当然のごとく語られる世の中ですが、主イエス様は悪人には手向かってはならないと教えています。今の世の中の風潮とまったく逆の戒めです。主イエス様の真意はなんでしょうか。

復讐は映画のテーマ

復讐は映画のテーマであり、大きなテーマです。なぜなら、そこには人間の正義が絡んでいるからです。The Equalizerという映画でも復讐劇が描かれています。ある町に暮らす街の人たちは、マフィアによって完全に支配されていました。暴力に脅されて、傷ついても何も文句は言えません。マフィアの恐怖におびえていたのです。そんな時に、元諜報部員、暗殺のスペシャリストのアメリカ人が、心に平安を求めてこの町に移り住んできたのです。彼は過去に行った恐ろしい殺戮、相手が悪人だったにせよ、もう恐ろしいことはしないと心に決めていました。しかし、この町の人たちの苦しみを目の前にした時に、彼はこのギャングたちと対決することを決意するのです。ここから、正義のために立ち上がる彼の復讐劇が始まります。彼は最終的にマフィアのすべての人間を殺し、街に平和をもたらすのです。

私はこの映画が好きです。気分がすっきりします。悪い者は裁かれ、正しい者が勝利する。最高のエンターテイメントです。

皆さんも僕と同じように、このような映画を見て楽しんでいるのかもしれません。なぜでしょうか。それは、私たち一人ひとり、泣くほど悔しい思いをしたことがあるからです。人にののしられ、馬鹿にされたり、またはだまされたりして、そのような悲しい経験をしてきたからです。人を人と思わない人から、冷たい言葉を言われ、皮肉と嫌味を言われて、つらい体験をしてきました。そのような時に、何もできなかった、仕返ししたくても、できなかったという経験をお持ちでしょうか。私たち一人一人が、そんな内の一人なのです。だからこのような映画やテレビドラマを見て、何か胸がスカッとするのではないでしょうか。

このような復讐は、実際の生活ではあってはならないことです。この話は映画という作り物の話です。実際の人間社会の復讐の連鎖が、多くの不幸を生むのです。現実に起きている様々な戦争も、その一つです。人間関係の小さな復讐は、実際にあちこちで起きているのです。たとえば、2018年の中国、河南省で、20年前の自分の担任教師を殴る蹴るなどして、復讐したという話があります。

つい先日も、離婚したカップルの元夫が殺人を犯し、その本人は自殺したのではないかと報道されていました。まだまだ、他にも似たような事件がたくさんあるのです。

イエス・キリストの戒め

悪に対する復讐はしていいのでしょうか。主イエス様は何と言っているのでしょうか。

あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」マタイ5章38-42節 聖書協会

私はクリスチャンになる前に、「目には目を、歯には歯を」という聖書の言葉を、諺のように思っていました。相手がナイフを持ち出したら、こっちにナイフで対抗する、殴られたら殴り返しても良いと、解釈していました。皆さんはどうでしょうか。

旧約聖書とユダヤ教の背景

ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。申命記19章20-21節 聖書協会

この聖句は、罪を犯す者たちへの警告です。人に対して罪を犯したら、同じように自分がその代償を支払うことになるという警告なのです。決して、復讐を容認している聖句ではありません。ところが、1世紀のユダヤ教教師たちは、「目に目を、歯には歯を」の律法を「やられたら、やり返す権利」として理解していました。復讐を正当化するためにこの聖句を使っていたのです。

ですから、主イエス様は、この聖句を使って復讐を容認している人たちに向かって、「悪に手向かってはならない」と言ったのです。

現代人も変わりはありません。「銃には銃、核兵器に核兵器を」という原則で、この罪深い世の中は動いています。 そして、今日のイスラエルの戦争においても、同じ間違った理由で行われています。神様の御心を完全に誤解してしまっています。

目には目を歯には歯を

主イエス様の真意は?

さて、ここから非常に難しい解釈になります。もう10年位前のことですが、アメリカでたびたび、銃乱射事件が起きていた時のことです。私はあるアメリカ人クリスチャンに銃規制について聞いてみました。便宜上、この人の名前をJohn と呼びます。銃規制に反対の人です。その時の会話を紹介します。

  • 私:アメリカであんなに殺人事件が起きているのに、なぜ銃規制しないのか。
  • ジョン:アメリカでは犯罪が多すぎる。自分を守るためにも、銃は必要だと思う。誰かが、強盗に入ってきたらどうする?自分を守るしかないだろう。そのような時に、銃は必要なんだ。強盗も銃を持っているから、正当防衛だよ。強盗犯に対して発砲するよ。そのように自分の妻にも教えている。
  • 私:でも人を殺すってそんな簡単にしていいのかな。

こんな会話を5-10分したと思います。主イエス様は、このような事を想定して、悪に手向かってはなれないといったのでしょうか。

1世紀の時代にも強盗はいました。今のような凶悪な強盗ではなかったかもしれませんが、強盗は確かにいました。強盗のような悪人がいるのは、今も昔も変わりません。そのような人たちに、手向かってはならない。右の頬を打たれたら、左をだせと、言っています。21世紀の現代でもこの原則は変わりありません。抵抗せずに、なすがままに任せなさいと言っています。

われわれ人間はこれを聞いて、どこまでですかと、聞きたくなります。全部、はぎとられるまでですか。全財産を取られるまでですかと、聞きたくなります。

「もしこうなったらどうすのか、あーなったらどうするのか」という疑問は、私たちの頭の中で、延々と続きます。私たちは、この世の中で霊的にも、肉体的にも、限界をもった存在ですから、このような疑問が出てきます。当然です。

主イエス様にお任せする

すべてをご存じの永遠なる主イエス様にお任せする、これが答えです。正当防衛の権利があったとしても、私たちはその権利を使わずに、悪人のいうままに彼らが欲しがっているものをあげましょう。

なぜでしょうか。それは、神様はそのような悪人をも愛しておられるからです。敵をも愛することが出来る神様は、クリスチャンにも同様のことをしなさいと教えています。信仰によって、神様にお任せするのです。神様は求める人にそれ以上に与えることがあります。

民は主の耳に達するほど、激しく不満を言った。主はそれを聞いて憤られ、主の火が彼らに対して燃え上がり、宿営を端から焼き尽くそうとした。…民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。」…民に告げなさい。明日のために自分自身を聖別しなさい。あなたたちは肉を食べることができる。主の耳に達するほど、泣き言を言い、誰か肉を食べさせてくれないものか、エジプトでは幸せだったと訴えたから、主はあなたたちに肉をお与えになり、あなたたちは食べることができる。あなたたちがそれを食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日ではない。 一か月に及び、ついにあなたたちの鼻から出るようになり、吐き気を催すほどになる。あなたたちは、あなたたちのうちにいます主を拒み、主の面前で、どうして我々はエジプトを出て来てしまったのか、と泣き言を言ったからだ。」民数記11章1、4-6、18-20節

この事例からわかるように、神様は私たちが「もういいです。十分です」と思うほど、恵みを与えることがあります。使い方に困ってしまうことがあるのです。神様は、求める人にそれ以上に与えることがあります。私たちも同様に与えなさいと戒められていますj。少し手伝って欲しいと頼んでくる人には、その倍以上にお手伝いをしてあげます。

キリストの弟子として、右の頬を打つなら、左を向ける 

冗談ではなく、誰かが右の頬を打ったらどうするでしょうか。最悪のシナリオです。倍返しに返したくなるかもしれませんが、主イエス様は今度は左を向けよと言います。何と非情な厳しい教えでしょう。けれども、ここが主イエス様の弟子であるかが試されるときです。実際、このような状況におかれたらどうでしょうか。

自分の正義を飢え渇く人は、あれやこれやと相手を懲らしめる策を練り、倍返しに仕返しをします。神の義に飢え渇く人は、甘んじて悪を受け入れるでしょう。これも成長の糧、成長の肥やしです。悪に対して善で返す原則が、ローマ12章18節‐21節で語られています。悪に対して、クリスチャンは自ら復讐することはありません。悪に対しては善で返しなさいと戒められています。なぜでしょうか。復讐は神様がすることだからです。神様にお任せしましょう。

「クリスチャン同士が裁判で争っている」ということを実際に見聞するときがあります。神の正義ではなくて、自分の正義を求めるから裁判に訴えるようなことをするのです。

このような争いが起きた時は、不義を甘んじて受けるのが神の御心です。クリスチャンは、このような争いごとに最初から関りをもちません。信仰によって、相手の話を聞くのです。復讐は神様のお仕事であることを肝に銘じて、今日もキリスト者として生きていけますように。主イエス様の尊い祝福が読者の皆様のうえに宿りますように。アーメン。

一切誓いをたててはならない

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