コンテンツへスキップ 投稿日:2022年10月11日/更新日:2025年2月22日

信仰-希望-愛と道徳の対比

信仰、希望、愛

それゆえ、信仰-希望-愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(1コリント13・13)この聖句は、皆さんもよくご存知のところだと思います。本日は、信仰と希望と愛について、道徳としきたりと正義に比較して、考えてみたいと思います。

私たち人間の道徳について

私たち人間は、長い歴史の中で道徳を作ってきました。聖書の教えが伝わっていない時代や地域でも、それぞれの時や場所で、道徳がありました。人が人としてやってはいけないことを、社会のルールとして決められています。それは、人を殺してはいけないとか、人の物を盗んではいけないとか、一部はモーセの十戒とも重なりますが、様々な道徳のルールがあります。そこでの人々の共同生活を平穏に維持するためには、道徳のルールが必要であったと思います。

しかし、どうしても道徳のルールを破る人が出てきます。それでは困るので、そうさせないように、何故、道徳を破ってはいけないのかと理由づけをします。その理由付けとして言われるのは、因果応報ではないでしょうか。悪い事をすると必ず罰せられる、悪い事をすると死んだ後に天国には行けずに地獄に落ちる、トータルでバランスが取れているはずと思いたくなります。

悪いことをするとその報いが来るというのは、ある意味、簡単で判りやすいです。私たちは、テレビの時代劇でも、勧善懲悪が大好きです。正義が勝たないと、もやもやします。

道徳は理屈であり、社会のルールであり、道徳によってある程度社会の平穏が保たれるかもしれませんが、苦しむ者、悲しむ者に対して、道徳は、救いをもたらすことはありません。道徳によって、罪の中にある渇いた魂が救われることはありません。道徳に暖かい愛を感じることもなく、道徳によって慰められたり、本当の幸せが訪れることはありません。私たちは、完全な道徳を完全に守ることはできません。それは日本の法律や、旧約聖書の律法を守ることによって、本当の救いに至ることができないのと同じかもしれません。

聖書で説かれている信仰

しかし、私たちの聖書で説かれている信仰はどうでしょう。人生も、人の心も、理屈通りには行きません。道徳と異なり、私たちの信仰には理屈はありません。無条件に愛して下さる神様の愛を、無条件に信じることにより、私たちは救われます。信仰には道徳は含まれますが、道徳には信仰は含まれません。道徳の限界を超えるのが信仰ではないでしょうか。

神様の無条件の愛を信じる無条件の信仰こそが、人間が考えて作った道徳の限界、因果応報の限界を超えることになるのではないでしょうか。信仰には、苦しみ悲しみの中にある私たちを慰めて下さる神様の思いやり、疲れて道に迷う私たちを支えて下さる神様の力強い手、私たちの飢え渇く魂を命の水でうるおし、主にある平安に導いて下さる温かい神様の愛が伴います。

神様は、このように、道徳や律法だけでは幸せになれない私たちに、道徳や律法の限界を突破させ、信仰による本当の幸福を備えて下さっています。

私たち人間のしきたりと希望

日本では、春や秋のお彼岸の時期や、夏のお盆の時期に、お供え物をして、お寺のお坊さんに来てもらってお経を唱えてもらうご家庭も少なくないと思います。

私たちは、そういった儀礼や儀式のしきたりを守ることで、死後の、自分とご先祖の不安を取り除こうとします。もちろん、お亡くなりになった方をしのぶ優しい心から出ているもので、すぐさま否定するようなものではないと思います。しかし、しきたりを守ることで、本当の不安を取り除くことはできません。しきたりが、私たちの希望に繋がることはありません。

ある宗教では、「悪い因縁で、先祖が成仏できずさまよっている。献金しないと神罰が下る。神の怒りはおそろしい。」などという理屈で、人を脅かし、不安な気持ちを持つ人の心につけこんで、献金を求めていると聞きます。私たちにとって、自分や先祖の死後のことは究極の不安であり、その不安と引き換えにお金を出させるのは大きな間違いだと思います。また、不安につけこむだけでなく、神様の権威を、お金を集める手段に悪用していることにもなります。神様の権威は純粋に神様を讃美することのみに反映させるべきで、神様の権威をお金もうけのために利用してはいけません。

聖書で説かれている希望

私たちの主は、イザヤ書41章13節「わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う。恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。」と、私たちを力づけて下さり、私たちを励まし、信仰によって、恵みによって、天国へいざなって下さいます。天国に行くために、お金はいりません。カイザルのものはカイザルに、神のものは神に、神のものはお金では買えません。

話を戻しますが、死後に関する不安と、それを取り除こうとするための「しきたり」は私たちの限界であり、それを超えるために必要なのは、聖書に書かれている希望ではないでしょうか。

それは、ヨハネの福音書の3:16に書かれている「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」というみことばによる希望であり、永遠の命の希望です。天国の希望はさまに神のもの、聖書に書かれている希望は、私たちのしきたりや心の限界を突破させるための、神様の賜物ではないでしょうか。

私たち人間の正義と愛

私たちは、基本的に、正しいことは好き、不正は嫌いです。そして、同時に、私たちは正しくない者は罰せられるべきだと思っています。しかし、私たち人間には、絶対的正義はなく、その人にとっての正義なのではないでしょうか。

戦争をする国同士は、それぞれ、自分が正しいと思って闘っています。その人にとって不正な者たちを駆逐するのです。しかし、正義の剣は、両刃の剣です。戦争においても、最初に侵略した者の罪は大きいものの、戦闘が進むにつれ、お互いに殺し合うことで、侵略された側も相手と同じような立場に陥って行く危険があります。

聖書で説かれている正義と愛

正義について、聖書から2か所お読みします。

マタイの福音書の7章では、「7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」と書かれております。

また、ヨハネの福音書の8章では、姦淫の場で捕らえられたひとりの女について、「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。」と問われた主イエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われました。そして、主イエスは、その女性を赦されました。

正しくない者を赦し、愛して下さるのが、私たちの神様です。

犯罪者が世の中から否定されている時でも、母親は我が子を見捨てません。私たちの主なる神様も、悪を憎む神様が、悪の中にいる私たちを愛してくださっているのです。

私たちの正義の限界を超えるのは 神様の赦しであり、神様の愛ではないでしょうか。

人類は、自分の正義を理由に、戦争をして、人の命を奪います。しかし、人の命は神様から与えられた大きな恵みであり、その神様の恵みを、人間同士で奪い合ってはいけません。

人によって、立場によって変わってしまう人間の正義の限界を突破させるためには愛が必要です。赦せないことを赦すためには愛が必要です。

神様が与える信仰と希望と愛

改めて申し上げますと、私たち人間が考えて、作った、道徳としきたりと私たちの正義だけでは、真の平和や真の幸せは訪れません。道徳としきたりと私たちの正義の限界を超えさせ、私たちを本当の幸福に導いて下さるのは信仰と希望と愛であると思います。

理屈ぬきの信仰に与えられる理屈抜きの恵み、死の不安におびえる私たちに与えられる希望、赦せないことを赦すための愛、私たちの限界を超えさせるために、神様はこの信仰と希望と愛を備え、信じる者に神の国に近づく道を私たちに備えて下さっています。

聖書の語る信仰と希望と愛は、私たち人間の限界を超えさせ、本当の平和と本当の幸せを得るための、神様からの大きな恵みです。

御茶の水キリストの教会 鈴木敦博