コンテンツへスキップ 投稿日:2025年3月25日/更新日:2025年3月25日

旧約聖書と新約聖書の違いと共通点

旧約聖書と新約聖書の違い

旧約聖書と新約聖書の違いと共通点は何でしょうか。聖書全体のメッセージを理解するために、違いを理解することは重要ですが、共通点も同時に非常に重要です。旧約聖書と新約聖書の違いと共通点を別の言葉で表現することができます。それは非継続性と継続性です。

目次

旧約聖書と新約聖書の違い、非継続性

この記事を読む前に、旧約聖書の内容新約聖書の内容を最初に読んげいただくと、双方の違いについての理解が深まると思います。

旧い契約と律法

旧い契約が掲示されている旧約聖書と新しい契約が掲示されている新約聖書は、その契約の性質という意味においてまったく違います。ローマ人の手紙3章21節-新しい契約と十字架の関係を参照に。神様はイスラエルという特定の民族と契約を結びました(出エジプト記12章)。その時に十戒が与えれました。その他にも礼拝に関する律法が与えられました。その十戒を読んでみましょう。

  1. わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
  2. あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。
  3. あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
  4. 安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。・・・主は安息日を祝福して聖別されたのである。
  5. あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
  6. 殺してはならない。
  7. 姦淫してはならない。
  8. 盗んではならない。
  9. 隣人に関して偽証してはならない。
  10. 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」出エジプト記20章2-17節 聖書協会

この十戒が、イスラエルの生活の軸になりましたが、イスラエルにはもう一つ特殊な律法が与えられました。神様がイスラエルに与えた律法は、イスラエルは主なる神様に従う民族であるという約束事に基づいています。神様の御心に反することは罪と定められ、イスラエル人が罪が犯した場合は、罪の代償としていけにえをささげるように神様は定めました。人間の罪を贖うためのいけにえの概念は、新しい契約に引き継がれていきます。

しかしイスラエルの先祖を辿っていきますと、創世記に登場するアブラハムであることがわかります。神様は、このアブラハムと契約を結び、その契約はイスラエルへと受け継がれたのです。

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」創世記12章1-3節 聖書協会

主なる神様がアブラハムに言った約束は3つに分かれています。(1)アブラハムの約束に地に導く。(2)アブラハムを祝福し彼の子孫を大いなる国民とする。(3)地上の民族は、アブラハムを通して祝福を受ける。これらの3つの約束は、神様がイスラエルと結んだ契約に引き継がれていきました。この3つの約束の中で、もっとも重要なものは三番目の約束です。すべての民族はアブラハムを通して祝福を受けるという約束です。この約束であり預言は、アブラハムの子孫であるイエス・キリストによって成就されました。

旧約聖書と新約聖書の違い

新しい契約と律法

では新しい契約と律法は、旧い契約と律法とどのように違うのでしょうか。旧い契約では、約1500年の間に様々な預言者たちが、神様のみことばを言い伝えました。イスラエルの人々が罪を犯し続けている時、または周辺の敵国に苦しめられている時など様々な状況で、預言者たちはみことばを話したのです。預言者たちは、神様からイスラエルの民へのみことばの伝達人です。もう一つ、大切な役目をもった人たちがいました。それは祭司です。祭司は、イスラエルの罪のためにいけにえをささげたのです。祭司たちは、イスラエルから神様へと結びつけるとりなしの役割を担っていたのです。

ところが、新しい契約ではまったく違った方法で、神様はみこころを示されました。三位一体の神である神様の一人子を、父なる神様はこの世の遣わしました。最後の預言者として、また最後の大祭司として、この世に送られイエス・キリストとして生まれさせたのです。罪を犯したことがないイエス・キリストが、神様と人間の仲介人となられたのです。しかし、旧い契約では、罪人に過ぎない人間である預言者と祭司を仲介者でした。

旧い契約がイスラエルという特定の民族だけと結ばれた契約に対して、新しい契約では、アブラハムに示された約束にあるように、すべての民族が対象です。イエス・キリストを信じるすべての人間が、神様の子供として受け入れられると約束されています。

律法も違います。律法という媒体で神様はイスラエルの民と契約を結びました。ところが新しい契約では、イエス・キリストが律法を成就されたのです。主イエスが律法を終わらせ、主イエス様ご自身が律法の基準になられたのです。

罪を犯すごとにイスラエルの民はいけにえをささげましたが、新しい契約では、たった一度イエス・キリストが全人類の罪のために、いけにえとして十字架で死なれたのです。もはや、私たちは罪のためのいけにえをささげる必要はなくなりました。その代わりに、私たちは主イエス・キリストの名によって、罪の赦してくださるように父なる神様に祈ります。

また礼拝の形も違うのです。イスラエルの人々は、直接、神様との関係を持つことは出来ませんでした。罪人に過ぎない預言者や祭司を通して、イスラエルは神様と関係を持っていたのです。不完全な関係です。さらに彼らの礼拝も人間が造った神殿で行われていました。ところが、新しい契約では、イエス・キリストを信じる人は誰でも、父なる神様と直接、個人的な関係をもてるのです。人間の手で造られたような神殿ではなく、天にある神殿において父なる神様と関係をもっていると約束されています。

旧約聖書と新約聖書の違い

旧約聖書と新約聖書の共通点、継続性

ここで旧約聖書と新約聖書の共通点についても考えてみましょう。旧約聖書に啓示されている神も、新約聖書に啓示されている神も、まったく変わりはありません。神は、永遠の神であり聖なる義なる愛なる神です。神性は、変わることはありません。さらに、旧約聖書に示されている道徳的、倫理的教え、そして信仰はそのまま引き継がれています。

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」マルコ12章28節-31節 聖書協会

主キリストは、旧い契約(旧約聖書)の戒めから引用して、新しい契約の基準を述べています。一番大切な戒めは、2つの戒めから成り立っています。第一に、神を愛し慕い求める信仰と神との関係、第二に、隣人を自分のように愛する隣人愛の関係です。神への信仰と隣人愛は、新しい契約になってもそのまま受け継がれているのです。しかし、旧い契約の時代に、この教えを完全に実践した人はいませんでした。主イエス・キリストは、身をもって上記の2つの律法を実践されたのです。この意味で、主イエス・キリストが、新しい契約の律法なのです。

罪のためのいけにえの概念も、新しい契約にはありますが、先に書いたように、キリスト者はもはや罪のためのいけにえをささげる必要はないのです。

まとめ 旧約聖書の預言と新しい契約

旧約聖書から新約聖書へ根本的な戒めは、引き続き継続されていますが、契約という観点からいえば継続性が絶たれています。旧い契約が終わり、新しい契約が主キリストによって成就されました。主キリストが、人間の罪の贖いのために十字架上で死んで死から復活して、神と人間の仲介者となりました。この時から新しい契約の時代が始まったのです。

新しい契約に関する預言は、旧い契約が結ばれる以前に、イスラエルの先祖であるアブラハムに約束として与えらています。創世記12章1節ー3節は上記に示した。新約聖書のガラテヤ 3章6節‐8節を読んでみましょう。

それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。
だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。ガラテヤ3章6-8節 聖書協会

地上のすべての民族は、アブラハムを通して神の祝福を受けると預言されています。この意味は何でしょうか。これは、アブラハムの子孫であるイエス・キリストによって、神の祝福を受けるという預言です。

旧約聖書は旧い契約の書、新約聖書は新しい契約の書と思われがちですが、厳密にいうと、ちょっと違います。旧約聖書は、旧い契約の書だけではありません。新しい契約に関する預言が、旧い契約が結ばれる前から含まれているのです。新しい契約に関する預言と成立過程は、次のようになります。

旧約聖書と新約聖書の関係

映画で例えれば、旧約聖書および旧い契約は第一部であり、新約聖書および新しい契約は第二部です。しかし、第二部のストーリの重要さは、第二部を見ていなければ十分には理解できません。確かに、第一部と第二部は区切られていますが、同時に映画として継続していると言えるでしょう。聖書にも同じことが言えます。

よく旧約聖書と新約聖書の関係は、対比して考えられます。そのいくつかの例を挙げてみます。「預言と成就の関係」、「律法と恵みの関係」、あるいは「律法と福音の関係」、「物質的な契約と霊的な契約の関係」、「物質的な御国と霊的は御国の関係」といった具合です。

旧い契約の下では、羊、ヤギ、牛などといった動物が、罪の購いのいけにえとして捧げられましたが、新しい契約の下では、神の一人子である主イエスが私たちの罪の購いのために、いけにえとして捧げられました。ですから、私たちは罪のためいけにえはする必要がありませんが、その愛に応えて神様の僕として、自らを捧げることが求められているのです。このように、旧約聖書に新しい契約の大元になる形を見ることが出来ます。

総括的に聖書を読む

旧約聖書と新約聖書の継続性と非継続性をここまで見てきましたが、聖書を分割することは神の御心ではありません。聖書は、総括的に読む必要があります。旧約聖書から新約聖書から神の働きの継続性を考慮して読む必要があるのです。旧約聖書は、ちょうど舞台で言えば幕開けです。

新約聖書は、クライマックスを含めた閉幕に当たります。始めがあり、終わりがあるということです。逆説的に言いますと、始めがなければ終わりもありえないのです。第一幕と第二幕があるように、聖書にも旧い契約と新しい契約があります。神の働きの継続性を認識しつつ、契約の違いを理解する必要があります。

外部リンク 聖書とは?