ヨハネ12章27-33節からキリストの不思議な死を解説します。キリストは、十字架にかけられ死にました。キリストは死ぬために生まれた方です。私たち人間には分からないことだらけの不思議な死です。
人の死の現実
人は生まれた時から、寿命を迎え死ぬ定めにあります。死の現実を知っていても、死ぬために生まれてくる人はこの世にいません。重病が原因で他界する人もいれば、長寿を全うする人もいます。あるいは不慮の事故で命を落とす人もいます。死という現実が、すべての人間にあります。この死がいつ来るかはわかりませんが、すべての人は罪ゆえに死ぬように定められているのです。この死は肉体的な死だけではありません。人間の魂も、霊的に完全に死ぬようになったのです。日本の仏教では、召された方は、御仏になり成仏されるという習わしがありますが、それは日本の葬式仏教が作った空想の話です。
人が経験する死も病も苦しみも悲しみも、大元の原因は人間の罪にあります。人は、神様が創造されたこの地で生きるようになりました。太陽も月も星も宇宙全体が、神様によって創られたのです。神様は太陽の光によって昼と夜を分け、また夜には月を輝かせました。また空を飛ぶ鳥、地を這う動物、さらに動植物の食物として植物を創られました。海には海洋動物を与えました。人は完全な宇宙と自然の中で生きることを許されていたのです。
ところが人は、神様が与えてくれた恵みに満足せずに、自分勝手に生きることを選びました。人にその最初の道しるべを示したのは、悪魔でした。人は、悪魔がそそのかされ騙され、神様の下を離れて生きていくことを決めたのです。これがアダムの罪です。私たち人間は、この罪の霊的なDNAを受け継いで、この世で罪を犯すようになってしまったのです。その結果が、今の世の中の混乱、混迷です。人間は争い憎しみ合い続けるのです。人の苦しみや悲しみは、どんなに科学が発達しても決して消え去ることはありません。人間の力で解決するのは不可能です。この苦しみの中で人間は遅かれ早かれ死を迎えるのです。
死ぬために生まれた方、キリスト
「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。ヨハネ12章27-33節 聖書協会
しかし、キリストは「わたしはまさにこの時のために来たのだ」と言っていますが、この時とは何でしょうか。それは、十字架の死です。そのことを知っていたイエス・キリストは、父なる神の御心が行われように祈りました。その後、父なる神は、キリストの祈りに応えご自分の栄光を現したのです。当時の弟子たちは、ビックリ仰天したに違いありません。
実際イエスは人間の生と死の常識を覆したのです。この方は死ぬために生まれてきたのです。イエス・キリストは、罪の呪縛から人間を救うために生まれてきたのです。最初のミッションとしてイエスは、神の御国に生きる人がどのように生きるかを教えました。これだけであれば、モラル的な教師で終わってしまったでしょう。
イエスの究極の目的は、人間の罪の贖いのために、つまり人間が罪を赦されるために人間の身代わりになって死ぬことでした。イエスが、私たち人間の罪のために刑罰を受け、十字架刑につけられたのです。犠牲を払ってくださったのです。私たちの代わりに地獄の苦しみを味わいました。ここでイエス・キリストの歴史が終わっていたら、キリストの教えは偽物になってしまいます。イエス・キリストは死から復活したのです。イエスは十字架で死んだとハッキリと見た弟子たちは、イエスから復活に関する預言を聞いていましたが、まさかイエスが本当に死から復活するとは考えもしていませんでした。今、イエスは天にて万物を支配され生きているのです。すべての霊的な力、悪魔の力をも支配しておられます。ですから、この方を信じる人は、罪の赦しをいただき聖霊を神様の救いの保証としていただいているのです。

キリストの不思議な死
キリストの十字架の死ほど、全世界に影響を与えた死はありません。どんな偉人であっても死んだら、その人の影響力は年々小さくなっていきます。忘れられていきます。人々の心の片隅に残る程度です。ところがキリストの死は全人類に影響を及ぼしました。
イエス・キリストの不思議な死について問いかけてみましょう。私たち人間にとって、一番不可解なのは、「キリストが人間の罪のために死んだ」という聖書の教えです。「あなたのために・・・」と言われても、頼んでもいないのに勝手に死んだというしかないでしょう。
しかし、キリストの死は、人間に対する神様の一方的な愛ゆえに成されたわざです。確かに、誰一人として、自分の代わりとして死んでくれと頼んだ覚えはないのです。繰り返しになりますが、神様の一方的な愛だからこそ、キリストの死が私たちには不可解なのです。
第二の不思議は、イエス・キリストの死は自殺と同じではないか?、自ら進んで死を選んだのであれば、自殺と同じではないか?という疑問です。これは、クリスチャンではない人が、当然持つ疑問かもしれません。しかし、真実はまったく違います。主イエス・キリストは、父なる神様の御心、人類の罪のために自分が罪のいけにえになることに忠実であったのです。十字架刑にかけられた死にました。異邦人たちの手によって死刑にされたのです。
神様の憐みの中で生かされている
私たち人間は、イエス・キリストを信じていても信じていなくても、神様の憐みの中で生かされています。神様は、私たちの罪悪ゆえに一瞬で命を奪い去ることも出来ます。一瞬の内に死を宣告される時が来るかもしれません。しかし、その時が来るまで、神様は静かにじっと私たちの悔い改めを待っています。
電車には、始発と終電があり、その間、分刻みで電車が運行されています。主イエス・キリストが運営している電車もあります。この電車には始発も終電もありません。イエスの霊的電車は、毎日、毎晩、24時間休まずに運行されています。この電車に乗るか乗らないかは、個人の自由です。しかし、この24時間の電車は永遠にあるわけではありません。いつかは止まります。永遠の終電になる時が来ます。その時が来る前に、主イエス・キリストの電車に乗ってください。主イエスはいつも電車内で待っていますので。
読者の皆様の上に、主イエス・キリストの尊い憐れみと恵みが宿りますように、心よりお祈り申し上げます。