コンテンツへスキップ 投稿日:2022年4月12日/更新日:2025年4月25日

自分の弱さを認めるクリスチャンは強い

自分の弱さを認められる

「精神的に弱い人がキリストを信じる」と主張する人がいますが、本当でしょうか。人間は元々弱い存在です。その弱さを認めてはじめて心の中に強さが生まれるのではないでしょうか。自分の弱さを認めるクリスチャンは強いのです。

人間の弱さ

人間は元々弱いものです。それを弱いと言うのが、そもそもおかしいのです。自分ひとりで生きていくことは出来ないのが、人間です。自分を信じれば何でも出来ると言っている人でも、実は何らかの形で他の人にお世話になっています。人間は、常に何かに頼って生きています。子供の頃は、親兄弟に頼って育っていきます。大人になれば、会社と言う組織に頼って生きていきます。家族に頼って生きていきます。持ちつ持たれつです。

スポーツ選手は、身体を鍛え苦しい練習にも耐える精神力を養っています。ところが、一流のプロスポーツ選手が、麻薬や飲酒にはまっていたというニュースを時々耳にします。私の様な素人目には、「それ程の精神力を持っているのであれば、どんなことにも耐えられるだろう」と考えてしまいますが、現実は違います。

心の貧しい者は幸い

弱さを認めるクリスチャン

自分の罪深さと弱さを認めること、ここが聖書が教える新しい人生の出発点だと思います。自分の弱さ、罪をありのままに告白すると、何が起きるのでしょうか。いい意味での脱力感が生まれます。力が抜けるのです。「自分が・・・、自分が・・・」がなくなって主イエス様にお任せするようになります。

しかし、これは繰り返し繰り返し実践する必要があります。自分の弱さを認めたくない時が、時たまやってくる。「自分は神様なしでも強い」と言い張る自己顕示欲が勝ってしまう瞬間があります。自分の弱さを認めることを繰り返し繰り返し実践していると、自然と謙虚な心が生まれてくる・・・  他の誰とも比較しなくても、不思議なことに「自分は自分」と言い切れる自信が生まれてくるのです。ありのままの自分を受け入れてくれる主イエス様を信じてみることから、人生再生の道が開かれるのだから。人生が変わっていく瞬間です。

クリスチャンは、次の3つの点で自分の弱さを認めます。

1.自分が罪深い者であり、悪に負けてしまう弱い人間である

心が弱い人は、虚勢をはり自分を実際よりも大きく見せようします。虚栄心で満たされた人は、自分の欠点を隠そうとします。自分が見下されるのではないかという恐怖心で、ありのままの自分を見せられません。逆に心の芯が強い人は、自分の立ち位置をしっかり知っているので、虚勢をはる必要などないのです。

クリスチャンは、自分が罪深い者であるという自覚を持っています。悪に巻けてしまう弱い人間であることを認めています。これは逆にクリスチャンの人格の強さでもあります。自分の罪を認めるからこそ、逆に強くなれるのです。

2.自分が神の恩恵なしには生きてはいけない

自分の弱さを認める

キリストを信じる人は弱いのでしょうか。人間は元々弱い者ではないでしょうか。人間は、自分ひとりで生きていくことは出来ません。常に何かに頼っているのが、人間です。自分を信じれば何でも出来ると言っている人でも、実は何らかの形で他の人にお世話になっています。子供の頃は、親兄弟に頼って成長するでしょう。大人になれば、会社と言う組織に頼って生きていきます。結婚すれば、家族に頼って生活します。ボクシングのような個人スポーツでさえ、トレーナーのような周囲の人たちによって支えられて試合をします。宗教を信じていなくても、誰でもみんな精神的なよりどころを、自分以外のところに求めているのではないでしょうか。

しかし、クリスチャンはもう一歩進みます。自分が神の恩恵なしには生きていけないと認めているのです。神が与えて下さっている私たちの命は、神ご自身によって支えられているのです。自然の恵み、たとえば空気がなければ10分も生きていられません。クリスチャンは、自然のすべての恵みに神の愛を感じます。神に頼って生きていると告白できるのです。

裏話: キリスト教の歴史には、神の恩恵・恩寵について裏話があります。ジャンヌ・ダルクが「神の恩寵を受けていたことを認識していたのか」という難問に答えています。難問な理由は、教会の教理では恩寵は人間が認識できるものではないとされていたましたからです。この難問に彼女は見事に答えています。詳しくは、次のリンクを参照に。

3.賢く生きる力の源は、主イエス様にある

この世にはいろんな生き方があります。国や文化が違えば生き方も違います。個人によって価値観も違います。しかし、クリスチャンは、自分の生き方と価値観の根源が、主イエス様にあると信じています。生きる力の源が主イエス様にあると認識しています。自分は人生について理解していない、何が正しいかも理解していない、賢く生きる知恵もないと素直に認められるのです。

主イエス様を信じ委ねることができる人は、自分の自己中心的な心を直視できます。自分の愚かさを恥じるのではなく、神の御前に告白します。実は、この告白にクリスチャンの強さがあるのです。

結論 クリスチャンの謙虚さと自信

第1から第3までの原則は、自分の弱さを認める信仰告白でもあります。主イエス様を信じる人は、自分の至らなさを認める謙虚さをもっていますが、同時に自分に自信を持っています。その理由は、主イエス・キリストという後ろ盾があるからです。残念ながら、すべてのクリスチャンが、このような謙虚な態度をもっていないのも事実です。過ちを犯したときに、素直に自分の過失を認めることができるのが、本当の本物のクリスチャンです。

謙虚と自信は、相反する心の持ち方と考えられがちですが、主イエス様を信頼する人にとっては可能です。クリスチャンは、自分の非を容易に認めながら、自信をもっている不思議な存在です。不思議だと思われるのは、神様がなさっているわざだからです。人間には不可能に思える多くのことが、神様には可能なのです。

主イエス様によって変えられているという確信が、クリスチャンにはあります。人間の性格はそう簡単には変えられませんが、しかし、主イエス様を信じる人には可能です。徐々に変えられていくのです。

いかがでしたか。「キリスト教を信じる人は弱い人ではないか」という疑問に、クリスチャンの視点でお答えしました。キリストを信じる人は、自分の弱点や欠点を認める強さと勇気をもっています。逆に精神的に弱い人はできません。参考になれば、幸いです。読者の皆様の上に、主イエス様の尊い愛が注がれますように、心からお祈り申し上げます。

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