コンテンツへスキップ 投稿日:2022年5月14日/更新日:2025年2月22日

笛吹けど踊らずの意味

フルートを吹く女性

中田キリストの教会の伝道者である前田文夫さんの寄稿です。聖書の言葉とは知らずに、多くの人が使っている言葉があることにお気づきでしょうか。どこかで聞いたことがあるけど、聖書の言葉と知らなったということはないですか。「笛吹けど踊らず」もそんな言葉の一つです。前田伝道者が簡略にわかりやすく説明しています。

笛吹けど踊らず

「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。」(マタイ11:17)。

笛吹けど踊らずの意味

イエスは、当時のユダヤ人が旧来のしきたりや習わしに固執して、新しいキリストの福音を排斥する偏狭な態度を評して、広場で遊ぶ子供の遊戯に例えてこのように言われました。一組の子供が他の組の子供に「婚礼ごっこをしよう」と勧めても、「嫌だ」と言う。遊戯とは言え、人生の要事であるにもかかわらず、何の関心も示さず身勝手で利己的なユダヤ人を批判されたのです。

バプテスマのヨハネの宣教

イエスが世に出る半年ほど前に、バプテスマのヨハネは、ユダヤの荒野で宣教を始めてこう言いました。「「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ3:2)。イザヤが40章3節でその出現を預言したのは、この人物でした。彼は、世の人に悔改めを勧める使命を帯びて世に来た最後の預言者でした。

 罪の意識のない所に悔改めはなく、悔い改めのない所に救いはありません。今や選民ユダヤ人は、神から遠く離れた民となっていました。バプテスマのヨハネの忠言に何の関心も示さず、それどころか、イエスを悪霊につかれた者と罵りました。

ユダヤ教律法学者たちの罪深い言葉

イエスは伝道の公生涯を始められると、取税人や罪人と食事を共にされました。すると「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」(マタイ11:19a)と口汚く罵りました。当時の取税人は、ローマ政府の税金を取り立てる徴税人で、いわば敵の手先としてユダヤ人の間では軽蔑されていました。また罪人は、選民を誇っていたユダヤ人から異教の者と蔑視されていました。

しかし、イエスは最後にこう言われました。「でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」(マタイ11:19b)と。

管理人のあとがき

世界各国と比較しても、日本のクリスチャン人口は最低レベルです。戦後、多くの宣教師が日本に主イエス・キリストの福音を携えて日本に来ました。それでも日本の土壌は、砂漠のように渇いています。真理を求めている人はいません。手を変え品を変え、日本人に主イエス・キリストの福音を伝えていますが、「笛吹けど踊らず」の状態です。

いつか主イエス・キリストが再臨されます。そのときには、すでに手遅れです。その日には笛を吹いてくれる人は誰もいません。その代わり、神の裁きのラッパが吹かれます。すべての人間が、神の裁きの前に出なければなりません。笛が吹かれているうちに、主イエス・キリストの福音に耳を傾けましょう。