復讐しないで悪に勝つ知恵と勇気について考えることは、私たちが直面するさまざまな困難や試練に対してどのように対処すべきかを示唆してくれます。ローマ12章19節には、「私の復讐は、私が報いる」と記されており、この言葉は私たちが復讐心を抱かずに、むしろ愛と理解をもって悪に立ち向かうことの重要性を教えてくれます。本記事では、この聖句を通じて、復讐の代わりに選ぶべき知恵と勇気について探求し、真の勝利がどのように実現されるのかを考察していきます。どんな状況下でも、私たちが心に留めるべき価値観とは何か、一緒に考えてみましょう。
私たちが日常生活で直面する悪には、様々な形があります。小さな悪意から、深刻な犯罪に至るまで、私たちは常に何らかの形で悪の影響を受けています。たとえば、職場での不正や嘘、家庭内での暴力や無関心、社会全体での差別や不公平など、これらはすべて私たちにとっての悪であり、私たちの精神を蝕む要因となります。これらの状況に対処するためには、主イエス様への信仰によって、まず自分自身の感情を整理し、冷静に行動することが重要です。
だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。…愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。ローマ12章19-21節 聖書協会
この世の中の悪
私たちの周囲には悪に溢れた出来事が日常的に存在しています。職場において家庭において、公の場でもプライベートな状況でも、いつでもどこでも人間の悪は存在します。
悪に対する理解を深めるためには、その背後にある動機や状況を考慮することが大切です。人はなぜ悪を行うのか、その理由を探ることで、私たち自身の反応や思考を調整することができます。たとえば、ある人が嫉妬から不当な行動を取った場合、その人の過去や背景が影響していることも考えられます。そうした視点を持つことで、私たちは相手に対して許しや理解の心を持つことができるのです。
人間関係が壊れている状況を次の聖句が説明しています。
あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。ローマ1層29-32節 聖書協会
例えば、職場でのいじめはどうでしょうか。皮肉や見下すような心の暴力で、いじめられたことはないでしょうか。ネット上での誹謗中傷の被害にあったことはありますか。もっと極端な場合は、凶悪犯罪の被害者になってしまうこともあります。
この罪深い人間社会では、本当の神様を信じない人たちはお互いに傷つけ合い生きていくのです。クリスチャンもその悪の被害者になりえます。クリスチャンはどのように悪に対処したらよいのでしょうか。

悪に対しての心構え
復讐の感情を抱えながら生きることは、私たち自身を苦しめることになります。復讐は一時的な満足感を与えるかもしれませんが、それは決して真の解決にはなりません。私たちが真に向き合うべきは、愛と理解を持って他者に接すること、そして神の導きに従うことです。復讐の心を手放し、愛をもって生きることで、私たち自身が癒され、成長することができるのです。
悪に対して心をどのように保つべきかは、非常に重要なテーマです。聖書は私たちに対して、いかなる状況においても復讐の道を選ぶべきではないと教えています。むしろ、私たちが直面する悪に対してどう向き合うかが、私たちの信仰を試す重要なポイントです。この聖書の教えは、私たちが日常生活で直面するさまざまな試練に対しても適応できます。
例えば、職場の同僚があなたに対して不当な評価を下した場合、あなたはどう反応するでしょうか。多くの人はその状況に対して怒りを抱くかもしれません。自分が受けた被害の大きさに心が痛むこともありますが、その痛みが復讐心に変わらないように注意が必要です。たとえば、友人とのトラブルや、信頼していた人からの裏切りの経験は、私たちの心に深い傷を残すことがあります。その心の傷が、自分の心を蝕んでいくのです。この状態が続くと怒りとやるせない気持ちは、火山のマグマのように大きくなってしまします。
しかし、聖書の教えに従い、まずは冷静にその状況を受け入れ、善をもって相手に接することが大切です。そうすることで、あなた自身の心も平安を保つことができます。私たちの心を守るために、神に委ねることが必要です。神は私たちを見守っており、私たちの苦しみを理解してくださいます。
復讐はクリスチャンの選択肢の中にはありません。神様にお任せするのです。
復讐の感情が湧き上がった時、私たちはまずその感情を受け入れ、自分に正直でいることが必要です。しかし、その感情に囚われることなく、次にどう行動するかを考えることが大切です。たとえば、誰かに裏切られたとき、その相手に対して復讐を考えるのではなく、なぜそのような行動を取ったのかを考え、理解を深める努力をすることが、結果的に自分自身を癒すことにつながります。

目には目をではなく、愛で打ち勝つ知恵と勇気
悪に対する私たちの反応は、しばしばその人の本質を示します。「目には目を、歯には歯を」という聖書の言葉を誤解して、多くの方々が人間には「悪には悪を返す」権利があるという考えています。クリスチャンの方々も誤解しているかもしれません。この言葉は警告です。悪を行う人に対して、神様の裁きがあるという警告です。
クリスチャンが持つべきは、復讐心ではなく、赦しの心です。たとえば、自分に対して悪意を持つ人を許すことは、決して簡単ではありません。しかし、許しは私たち自身にとっても癒しをもたらします。だからこそ、神に委ね、自分を癒す勇気を持つことが重要なのです。
愛で打ち勝つという考え方は、非常に深い意味を持っています。私たちが悪に対して愛を持って接することで、その悪を根本から変える力を持つことができるのです。たとえば、暴力的な行動を取る人に対して、愛と思いやりを持って接することで、その人の心を変えるチャンスを与えることができます。このような姿勢が、私たちの周囲に良い影響を与え、より良い社会を築くことにつながるのです。
具体的な例を挙げてみましょう。例えば、ある人が他者に対して悪意を持って行動した結果、その人の評価が下がった場合、私たちはその人の失敗を喜ぶのではなく、むしろ同情の気持ちを持つべきです。聖書の教えによれば、私たちが他者に対して抱く感情は、神に対する私たちの姿勢を反映しています。したがって、敵が困難に直面している時こそ、私たちが愛や慈しみを持って接することが求められます。
私たちの人間関係は、時に非常に複雑です。特に、感情的な対立が生じた場合、その関係を修復することは簡単ではありません。ですが、聖書は私たちに対して、まずは相手を理解し、共感することが重要であると教えています。たとえば、あなたが誰かに対して強い不満を抱いている場合、その人の立場や背景を考慮することで、感情が少し和らぐかもしれません。これが、悪に対する適切な対処法です。

神の裁きに身を委ねる信仰
私たちが悪に対してどのように対処すべきかを考えるとき、最終的には神の裁きに身を委ねることが重要です。なぜなら、神は私たちの心の中を知り、私たちの行動を見守っているからです。人間の裁きはしばしば不完全ですが、神の裁きは完全です。これを理解することで、私たちは安心して神に委ねることができるのです。
敵が倒れたら、助けるように命令されています。私たち人間は、ギブアンドテイクという利害関係に基づいて人間関係を築くことが多いのです。ですから善には善を返す、悪には悪を返すという関係が普通に成り立ちます。
神の裁きに身を委ねることは、私たちの心に大きな平安をもたらします。人間同士の争いや復讐心に捉われることなく、神の計画に従うことで、私たちはより高い次元での理解と許しを得ることができます。たとえば、過去に傷つけられた経験がある場合、その痛みを神に委ねることで、私たちは新たな希望を見出すことができるのです。この過程は時に辛く、長いものかもしれませんが、神は私たちを常に見守っており、私たちが正しい道を進むことを助けてくださります。
むしろ、私たちは裁きを神様にお任せします。これが神様の御心です。なぜかと言えば、裁きのわざは神様の特権行為だからです。私たち人間に人を裁いたり復習したりする権利などありません。キリスト者の生き方の素晴らしさは、私たち自身が善行をするからではなく、神様の恵みと知恵にあります。罪深さを認識して、悔い改めましょう。
