コンテンツへスキップ 投稿日:2023年4月27日/更新日:2025年4月30日

ユダヤ人たちの不信仰-ヨハネ10章23節

ユダヤ人たちの不信仰

ユダヤ人たちは旧約聖書の律法を信じメシアを待ち望んでいました。しかし、イエス・キリストがメシアとして宣教を始めた時、ユダヤ人たちは常に主イエス様に挑戦的な態度で対峙していました。主イエス様を受け入れることも信じることもしませんでした。むしろ、彼らは主イエス様を迫害したのです。ユダヤ人たちの不信仰から何を学べるでしょうか。「わたしを信じなさい」というキリストの言葉を聞いて、私たちはどのようにキリストに答えるのでしょうか。

神殿の境内で…ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。…わたしと父とは一つである。」ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」そこで、イエスは言われた。…「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」ヨハネ10章23-38節 聖書協会

ユダヤ教律法学者たちの思い

ユダヤ人たちは、メシアが神の権威によってイスラエルの王国を復興してくださると信じていました。ユダヤはローマ帝国の支配下にありましたが、主なる神様がメシアによってローマ帝国よりも大きな神の御国を建設してくださると考えていたのです。ユダヤ教律法学者をはじめ、パリサイ派やサドカイ派も含めて、彼らの地位が高められると考えていたのです。

ところが、ユダヤ人リーダーたちの期待感に反して、主イエス・キリストは貧しい人たちやユダヤ社会の底辺にいる人たちと交わりを持ち始めました。まったく想定外の行動をとったのです。そこでユダヤ人たちは、ダイレクトに主イエス・キリストに「メシアならメシアとハッキリ言ってください」と言い寄ったのです。それでも彼らは主イエス様を信じませんでした。

ユダヤ人の不信仰の理由を考えてみましょう。2つ理由があります。第一に、イエス・キリストはユダヤ教の伝統を守りませんでした。ユダヤ教のラビの教えを守れない人など、メシアであるはずがないと考えたのでしょう。第二に、主イエス・キリストと父なる神様の関係にありました。ユダヤ人たちはメシアなる預言者を待ち望んでいましたが、「神が人と成って語る」のような考えは微塵もありませんでした。ところが、イエス・キリストは神をご自分の父を呼び、直接父なる神によって遣わされたと宣告したのです。「父なる神とイエス・キリストは一つ」であることも明言したのです。ユダヤ人たちは、これらのイエス・キリストの言葉を、神を冒涜していると解釈しました。

ユダヤ人たちの不信仰

ユダヤ人たちの過ち 

このユダヤ人たちの不信仰から私たちは何を学べるのでしょうか。ユダヤ人たちは、3つのことが原因で主イエス・キリストを信じることが出来ませんでした。

第一に、ユダヤ教の伝統や言い伝えが彼らの霊的な目を曇らせてしまいました。ユダヤ人の神の民としてのアイデンティティーは、ユダヤ教の伝統と言い伝えを守ることにありました。伝統を守る事こそ、彼らの信仰の証だったのです。その大切な伝統を否定するイエス・キリストは、ユダヤ人たちにとって信じるに値する方ではなかったのです。

第二に、ユダヤ人たちは真理を求めてはいませんでした。古代ユダヤ教は伝統に基づいた宗教でした。この意味では、神の御心あるいは神の真理は二の次だったのです。真理あるいは真実であるかどうかは、伝統が決めていたのです。結果的に、主イエス様がなさったわざも教えも、彼らの心の耳には届きませんでした。

第三に、ユダヤ人たちの信仰は、聖書的な信仰ではなく単なる思い込みに過ぎませんでした。思い込みの信仰は恐ろしいものです。現代社会でも多くのカルト宗教が存在しますが、その思い込みによって他のものが目に入らなくなります。古代ユダヤ教を信じていたユダヤ教律法学者たちも、自分たちの正当性を主張するばかりで、他のものをすべて否定したのです。結果的に、主イエス様の教えも完全無視を決め込んでいたのです。その様な人に主イエス様は憐れみを示しましたが、残念ながら彼らの心には届きませんでした。クリスチャンにならない理由

ユダヤ人たちの不信仰

イエス・キリストが真実を語っていたら

しかし、一歩立ち止まり、イエス・キリストの言葉を検証してみましょう。もしイエス・キリストが真実を語っていたら、私たちはどのように対応したらいいのでしょうか。イエス・キリストの言う通り、真実を語っていなければ信じるに値しません。もし真実であれば、生か死の問題です。一生かけて検証しても損はありません。

この世には、一生かけても損はしない物などあるのでしょうか。国宝級のお宝であっても、時代が変われば価値も変化するでしょう。そしてそのような物質の存在は、いずれ消えてなくなってしまいます。目まぐるしく価値観が変化する現代社会では、一生かけても損はしない物などありません。しかし、イエス・キリストのメッセージだけは別格です。

イエス・キリストは、何度も「わたしを信じなさい」と私たちに言っています。創造主なる神の御心を聞くように、私たちを招いて下さっています。

イエス・キリストの招待状をゴミ箱に捨てるのか、それとも素直に聞き入れ信じるのかは、私たち次第です。だれも強制したりしません。脅したりもしません。主イエス様はいつも自由を与えてくださっています。キリストへの信仰は、新興宗教が行っている強制的な信仰ではありません。キリストの名によって、そのようなことを行っている集団は、たとえ有名な先生がいても偽物です。

「多くの人たちが行くから安心だ。わたしもついて行ってみよう」のような他人追従の信仰でもありません。あくまでも、個人の判断に任されているのです。自由意志 聞く耳のある者は聞きなさい このようにイエス・キリストへの信仰は、いつも自由です。でも勇気をもってキリストを信じてみましょう。必ずイエス・キリストが約束する神様の祝福が与えられます。

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