ローマ・カトリック教会では、ローマ教皇が選ばれた信者たちの足を洗う儀式があります。この儀式は、弟子たちの足を洗う主イエス様の行いに倣って行われています。私たちも同じ儀式をする必要があるのでしょうか。主イエス様のこの行為に何の意味があるのでしょうか。
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。…さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。ヨハネの福音書 13章3-17節 聖書協会
突然、弟子たちの足を洗うキリスト
主イエス様は、突然、弟子たちの足を洗い始めました。もし弟子たちが、このようなことを主イエス様がするとわかっていたら、前もって自分たちの足だけでなく体すべてをきれいに洗っていたでしょう。弟子たちは、まさに不意を突かれたのです。
1世紀のローマ帝国社会では、人々は素足でサンダルを履いていました。家に入るときは、奴隷たちが主人の足を洗ったのです。この慣習に従って、主イエス様は、突然、立ち上がって奴隷の仕事を始めたのです。弟子たちは、度肝を抜かれたに違いありません。「何のためにこんなことをするんだ?」と思ったでしょう。
主イエス様の行為に何の意味があるのでしょうか。ローマ・カトリック教会のローマ教皇が行っているように、年に一度足を洗うことが神の御心でしょうか。1世紀の慣習に戻って、実際に足を洗いなさいと私たちに教えているのでしょうか。どのように主イエス様の行為を理解すべきでしょうか。
神に仕える=人にも仕える
主イエス・キリストを信じ天のお父様を信じるクリスチャンは、主イエス様のために、主イエス様と共にこの人生を生きます。しかし、これは一人の旅路ではありません。主イエス様を信じる同胞と共に歩む旅路です。
クリスチャンの中には、キリストの体である教会に関わりを持たずに、自由気ままに気が向くままに生きている方がいます。教会から教会へ渡り歩きます。そこには何の責任もありませんので、気楽な旅路です。それも一つの生き方だと思いますが、果たして主イエス様の御心でしょうか。
主イエス様は私たちに模範を示してくださいました。一番身分の低い者がやる仕事を自らやって見せて、人に仕えるという事はどのような意味なのかを教えているのです。主イエス様は、「人に仕える象徴」として弟子たちの足を洗いました。このような奉仕は、人に見せるために行うのではなく、主イエス様にあるクリスチャンのために、主イエス様の名によって行うのです。それはどんな行いにも当てはまるでしょう。21世紀の社会でも同じように足を洗いなさいと教えているわけではありません。21世紀の文化が違いますから、当然その奉仕も違うでしょう。
主イエス様の行いを契約という観点から考えてみましょう。クリスチャンは、主イエス様との契約にあずかりますが、この契約には人々に仕えるという契約が含まれているのです。つまり、人々とも契約を結んでいるのです。クリスチャンは、神に仕えるだけでなく、同胞の仲間にも仕えるように戒められています。これが主イエス様とクリスチャンとの契約なのです。

主イエス様にあるクリスチャンの人間関係
主イエス様にあるクリスチャンの人間関係をどのように解釈すべきでしょうか。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ヨハネ13章34節の言葉に集約されると思います。また主イエス様は次のように言っています。
あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。マルコ10章42-45節 聖書協会
主イエス様が私たちを愛しているように、互いに愛し合い仕え合う、これがクリスチャンの人間関係の基本ではないでしょうか。主イエス様は、罪に苦しんでいる人にどのように対処したでしょうか。また憐れみと助けを求める人にどのように応えたでしょうか。人が嫌がるようなこと、避けるようなことでさえ、主イエス様は人々のために行いました。
キリストの弟子であるクリスチャンも、同じような心と態度、そして信仰によってなされる奉仕のわざが求められているのではないでしょうか。転んでいる人を助け、重荷を負っている人の重荷をいっしょに背負って、共に前に進んでいきます。これがクリスチャンの生き方です。主イエス様はお手本を示してくださいました。クリスチャンは、主イエス様の足跡を追ってついて行きます。これが霊的な成長過程のプロセスです。今日も、主イエス様を見上げて共に歩んでいきましょう。
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