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コンテンツへスキップ 投稿日:2023年6月22日/更新日:2025年11月16日

イエスが愛したように互いに愛し合う-ヨハネ13章34節

イエスが愛したように

キリストはご自分の教会を建てると約束されています。キリストの体なる教会になるために、何が必要なのでしょうか。{~~教会}を名乗っていても、主イエス様の御心に適った教会でなければ、名前だけの団体になってしまいます。キリストの弟子の集まりである教会の基準は何でしょうか。イエスが愛したように互いに愛し合う意味を考えます。

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」ヨハネ13章34-35節 聖書協会

忘れてはいけない愛の基準

すべての宗教が愛を語りますが、キリスト教は愛の基準が違います。愛の基準は神様ご自身にあります。人間が語る愛は、常に条件付きです。ギブアンドテイクの愛です。親切には親切で返せますが、悪には悪で返すのが人間の常です。人間の愛の基準は、ケースバイケースで変わります。カメレオンのように、相手によって様変わりします。

キリスト教以外にも互いに愛し合う宗教団体は、実際は私が知らないだけで、星の数ほどあるかもしれません。また宗教団体に限らず、親切と愛をモットーにしているサークルや集会もこの世の中には多くあるでしょう。

しかし、神の愛は無条件の愛です。人間が何をしようが、神の愛に変わりはありません。不変の愛です。その愛ゆえに、神は私たちに罪からの悔い改めを求めています。罪悪がどれ程、人を苦しめるかを教えるために、神は懲らしめるることがあります。それもこれも、神の愛ゆえなのです。

キリスト教の愛は、無条件であり、常に私たちを受け入れてくれるものです。この無条件の愛は、他者に対しても示されるべきです。たとえば、友人が失敗したときに、その友人を責めるのではなく、励ますことが愛の表現です。このように、愛の基準を持つことが重要です。

主イエス・キリストは、神の愛を身を持って実践しました。無条件の愛を教えたのです。主イエスは、まずその教えによって神の愛を示しました。父なる神が、人間をどれほど愛しているのかを、たとえ話で解き明かしました。さらに、主イエスは、悪霊に取りつかれた人々を癒して愛を示されました。究極の愛の形は、主イエス・キリストの十字架によって示されたのです。私たち人間の罪を贖うために、自らいけにえとなって死なれました。この愛をクリスチャンは実践するように命じられています。主イエスが愛したようにお互いにあいすること、これがキリスト者の命題なのです。この命題の意味を考えてみましょう。

この新しい掟は、私たちがどのように相手に接するべきかを示しています。例えば、職場での同僚との関係においても、互いに愛し合うことで、協力的な雰囲気が生まれ、仕事の効率も向上します。このように、愛は私たちの生活のあらゆる面に影響を与えるのです。

イエスが愛したように

教派を超えて

キリスト教には小さいグループを含めれば、数百ものの教派が存在します。ちょっとの意見の違いで、枝分かれしてそのような教派が生まれました。しかし、教派の教理の違いがあっても、キリスト者は無条件の愛を実践するように命令されています。

しかし、この命題は一夜にして達成できるものではありません。罪深い私たち人間には、ハードルが高いからです。だからこそ、日々の練習、実践が必要なのです。無条件の愛の実践は、継続しなければ意味がありません。その意味では一生の命題と言えます。キリスト者は、一生涯かけて無条件の愛を実践していくように命じられていると思います。

教派を超えて、キリスト者同士が互いに愛し合うことは、私たちの信仰を強める重要な要素です。愛を実践することで、私たちの信仰が深まり、神との関係もより強固なものになります。このような愛の網の中で育まれる信仰は、私たちを支え、導いてくれるのです。

管理人は、カトリックでもプロテスタントでもない、ルーテルでもないバプテストでもない、改革派でもない、セブンスデーでもない、何の縛りもない、何のレーベルのないクリスチャンでいたいと願っています。いっそのこと、教派の垣根など取ってしまいませんか。それで初めてキリストの愛の実践が可能であるように私には思えます。

教派の垣根を超えたキリストの愛弟子

私たちが本物の弟子となるためには、イエスが愛したように互いに愛し合うことが不可欠です。この愛の実践こそが、私たちを真のキリスト者へと導くのです。教会の中で愛を育むことは、私たちの信仰を深め、神の御心を実現する道でもあります。

ある教派に属している教会のメンバーになると、多かれ少なかれその教派の教理に縛られます。しかし、私はキリストの愛を実践するためには、そのような縛りは必要ないと心から信じております。果たして、主キリストはそのような縛りを認めているのでしょうか。

教派の縛りを超えて、キリストの愛を実践することは、私たちが本物の弟子となるための道です。この道を歩むことで、私たちは神の国を広げる一員となるのです。愛をもって生きることが、最も重要な使命であることを忘れてはいけないと思います。

それぞれの地域にある教会であっても、キリストが建てる教会は本来はひとつです。そのトップにいる人は、教団のリーダーではありません。また教団の創始者でもありません。唯一、主イエス・キリストだけです。このような認識があって、初めてキリストの愛を実践できるのです。

キリストの愛

日本全体にキリストの愛を広げよう

無条件の愛は、時には挑戦を伴います。私たちが直面する困難や試練の中で、愛を保持することは決して簡単ではありません。しかし、そうした時こそ、神の愛を思い起こすことが重要です。神は私たちのすべてを理解し、受け入れてくれる存在です。この理解が、私たち自身の愛の実践を助けます。

この愛の実践は、日本全国に広げるべきでしょう。この狂った罪深い世の中では、愛が冷えてしまいがちです。だからこそ、キリスト者は、キリストの愛を叫ば中ればなりません。愛の実践には、もちろん時間と努力が必要です。愛を実践することは、容易ではありませんが、日々の小さな選択の積み重ねが大きな影響を与えます。

例えば、見知らぬ人に優しくすることや、困っている人に手を差し伸べることが、愛の実践の一環です。これらの行動は、周囲に良い影響を及ぼし、愛の輪を広げることにつながります。私たちが積極的に愛を示すことで、クリスチャンではない人たちにもその影響が広がります。

その結果、キリストの福音がもっと日本全体に広がると管理人は信じています。

キリストの愛

愛の実践によって主キリストが栄光を受ける

キリスト者は召される時まで、常に成長過程にあります。なぜなら、主キリストが愛したように愛し合うように生きるからです。主イエス様は、主の弟子として私たちを召してくださいました。その招きに応えて、主イエス様の足跡を歩むのです。

本物の教会になるために、本物の弟子になるために、常に主イエス様に目を向けてこの人生を歩みます。これがキリスト者が一生かけて目指すゴールです。

その結果、教会はキリストの体として成長していきます。お互いに支え合う、愛し合うキリストの共同体として歩んでいくのです。一人の人が悲しめば、他のキリスト者が共に悲しみ、一人の人の幸いは他の人々の祝福になるのです。

最終的に、私たちが目指すべきゴールは、イエスが愛したように互いに愛し合い、神の栄光を表すことです。この愛の実践が、私たちの信仰を強くし、周囲の人々をも引き寄せる力となるのです。

愛を実践することによって、私たち自身の心も変わります。愛を与えることで、自己中心的な考え方から解放され、他者を思いやる心が育まれます。これは、私たちの人間関係にも良い影響を与え、より深い絆を築くことができます。愛がもたらす変化は、目に見えないところで静かに進行しているのです。

キリストの愛を実践して、本物の教会、本物の弟子になりましょう。裁きの日に主イエス様に「よくやった。忠実なしもべだ」と言ってもらえるようなクリスチャンになり、キリストの弟子になりましょう。

世の光、地の塩として生きる

キリスト者としての成長は、愛の実践を通じて実現されます。互いに愛し合うことで、私たちの信仰は深まり、神の計画に従って生きる力となります。この成長は、一人ひとりの努力の結果であり、愛の実践はその基盤となるのです。愛を実践することは、私たちの人生を豊かにし、周囲にポジティブな影響を与える道です。私たちが愛を持って生きることで、他者の心にもその温かさが伝わります。このように、愛は人々をつなぎ、共に生きる力となるのです。

このように、愛は私たちの行動と信仰を結びつける重要な要素です。愛の実践を通じて、私たちは成長し、他者との関係も深まります。イエスが愛したように愛し合うことは、私たちの信仰生活の中心に据えるべきテーマです。最終的には、イエスが愛したように私たちも愛することが求められています。この愛は、私たちの行動や思考に深く根ざし、日々の生活で実践されるべきです。イエスの教えを胸に、私たちもこの無条件の愛を広めていく使命があるのです。

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