コンテンツへスキップ 投稿日:2023年6月24日/更新日:2025年5月19日

人間の強さと弱さの真実-主イエスを否認

大空を覆う雲と畑

ペテロは、たびたび信仰告白を主イエスにします。彼の信仰告白の裏側には、何があったのでしょうか。信仰告白の後、彼は主イエスを否認し見事に裏切ります。ここに人間の信仰のあやうさが、見え隠れしています。人間の強さと弱さについて考えてみましょう。

ペテロの信仰告白

シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」
イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ヨハネ13章36-38節 聖書教会

ペテロは「あなたのためなら命を捨てます」と主イエス様に告白します。この時のペテロは、確かに勢いがありました。神の子であるメシア主イエス・キリストに出会い、人生の頂点にいるように感じていたのかもしれません。しかし、ペテロは実際にイエス様と共に死ぬなんてことは、微塵も思っていなかったでしょう。私たちの人生においても、その時の勢いで高慢なことを言ってしまうことはないでしょうか。慢心になり心の中には高きプライドが潜んでいるのです。

主イエス様は、ペテロの大胆な信仰告白に驚きもせず、はっきりと「あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と断言します。このように主イエス様に断言されても、ペテロは他の人が離れても、自分は絶対に主イエス様から離れることはないと言い切ります。

このペテロの自信過剰の態度から、私たちは何を学べるのでしょうか。人間の強さと弱さは表裏一体の関係です。主イエス様は、十字架に行く前に弟子たちに言いました。「誘惑に陥らぬよう、目を覚ましていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」本当に信仰深いクリスチャンは、信仰に燃えていても、自分の弱さを覚え主イエス様に祈り求めます。心が神様によって砕かれ、主イエス様を慕い求めます。

試練の場に立ったペテロ

ではペテロが、実際に主イエス様を三度知らないと言った場面を読んでみましょう。

シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。・・・人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。ヨハネ18章15-27節 聖書協会

人間の強さと弱さ

クリスチャンが、神のみこころに反して罪を犯す時、どのように起きるのでしょうか。心で犯される罪でも、実際の行動における罪でも、罪は突然やってくるのではありません。徐々に、私たちの背後から忍び寄っているのです。ペテロは、人々に「お前もあの人の弟子の一人か」と問われます。この問いかけの前に、ペテロの罪の試練は始まっていたのです。あの大胆の信仰告白をした時から主イエス様が尋問される時までに、彼の気持ちに変化が生じていました。

ペテロはこの変化が起きている時、祈りませんでした。「心は燃えていても、肉体は弱い」の言葉を忘れ、祈りを怠っていたのです。私たちはどうでしょうか。ペテロよりも強い信仰を持っているでしょうか。

私たちが試練に立つとき

私たちが試練に立つとき、信仰が試される時、どのように対処しているでしょうか。祈りは、信仰の現れです。主イエス様を信じる人は、必然的に祈ります。自然に祈りの声が出てきます。主イエス様の祈りの生活について考えてみましょう。

キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。へブル5章7-10節 聖書教会

人間の強さと弱さを知り祈る

主イエス様でさえ、多くの苦しみによって従順を学んだのであれば、私たちはなおさらです。祈りは、神様に頼り祈り求めるために、私たちに与えられているコミュニケーション・ラインです。たとえ強い信仰を持っていても、祈りは必要不可欠です。ペテロは信仰の頂点にあった時に、悪魔に誘惑を受けて祈りを怠ってしまったのです。

また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。
なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。…肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。へブル12章5-11節 聖書教会

神様は、今も私たちの人生において働いておられます。私たちを成長させるために、鍛錬するために、神様は私たちに試練を与えることがあります。試練の中でも、主イエス様に頼り祈りましょう。父なる神様の鍛錬を受けて、信仰によって生きていきましょう。霊的な実を結びましょう。天のお父様は、クリスチャンが実を結ばせるのを見て喜んでおられるのですから。読者の皆様の上に、主の大いなる祝福と御守りがありますように。アーメン

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「人間の強さと弱さの真実-主イエスを否認」への2件のフィードバック

  1. メッセージを感謝します。
    もし私が当時のペテロの立場であったら、恐ろしくてペテロと同じように「イエスさまのことは知らない」。と言ってしまったであろうと思われます。 心は燃えていても肉体が弱い、、。というみ言葉は、怠らず祈りつづけなさいと促しているのですね。
    自分に頼らず、日々主に祈り求め主の器として清く用いていただけますように。
    主の平和

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