何でも叶う神社があれば行きますか。何でも叶う呪文があれば唱えますか。何でも叶うか否かは、滞在意識に関係している、とある人たちは考えます。またキリスト教の世界では、「キリストを信じて祈れば、何でもかなえられることを信じなさい。かなえられていない時は、祈りが足りないのです」といったメッセージが主張されたりします。主イエス様は何と言っているのでしょうか。
日本の神社には様々なご利益があるとされています。例えば、交通安全や合格祈願、恋愛成就などです。多くの人々が神社を訪れ、特定の願いを込めて祈ります。多神教の日本では、まるで保険にでもかけるかのように、年のためにこの神社で祈り、またあの神社で祈ることが可能です。しかし、これらの願いが本当に叶うのか、また叶う条件は何なのか、神社の場合はどうなんでしょうか。主イエス様は、祈りについて次のように言っています。
わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。ヨハネ14章13-14節 聖書協会
初めてこの聖句を読んだ人は、「イエスの名によって」が、何かのおまじないのように考えるかもしれません。上記の聖句を、文脈を無視して文字通り読むと、「願うことは何でもかなえられる」と解釈されます。しかし、主イエス様の真意は何でしょうか。
この聖句は、クリスチャンにとって非常に意味深いものです。イエス・キリストの名によって願うことは、ただ単に願望を述べることではなく、神との関係性を深める行為でもあります。イエスは私たちに、自己中心的な願いではなく、神の意志を求めるように教えています。
この聖句を深く理解するためには、イエスがどのような背景でこの言葉を述べたのかを考える必要があります。彼は弟子たちに向けて語り、彼らの信仰を強めようとしていました。彼の名によって祈ることは、彼の意志を反映することを意味します。

キリストの名によって祈る時
クリスチャンは、キリストの名によって祈りますが、実はとても重要な意味が隠されています。キリストの名によってなされる祈りは、本来キリストの弟子だけができることです。主キリストに心からついていこうと決心している人が、キリストの名によって天のお父さまに祈ります。
キリストの名で祈るということは、彼の教えを理解し、それに従うことを意味します。たとえば、神の愛や慈悲を他者に示すことが求められています。私たちの祈りが、他者への奉仕や愛につながるものであるべきです。
これはどのような祈りでしょうか。自分の思いではなく、御心に適った祈りです。「神の御心が行われますように」という祈りです。キリストの弟子であるキリスト者は、自分の願いがかなうように祈っている訳ではありません。神様を自分の思いのために利用するのであれば、まさにそれはご利益宗教です。むしろ、本当の祈りは、常に神様の御心に目が向けられているのです。ですからヨハネは次のように書いています。
何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。1ヨハネ5章14節 聖書協会
神の御心に適った祈りとは、私たちの願いが神の計画や目的に沿ったものである必要があります。たとえば、病気の回復を願う祈りは、単に個人の癒しを求めるのではなく、その体験を通じて神の栄光が現れることを願うものです。
私たちが祈るとき、その目的を見直すことも大切です。自分の欲求を満たすためだけではなく、神の計画を理解し、それに従うための祈りであるべきです。これにより、私たちの祈りはより深い意味を持つようになります。キリスト者が祈りを通じて成長することは、神との関係を深めるための重要なステップです。私たちが神の御心に従うことで、日々の生活の中で神の導きや助けを受けることができます。

クリスチャンの人生の成長は神様の働き
クリスチャンとしての生活の変化は、根本的に神のみわざであることと、わたしたちは理解しています。私たちを神のかたちに変えてくださるのは、私たちの努力や従順ではなく、神様ご自身です。ですから、神様に祈り、私たちを変え、形作り、変えてくださるよう願い求めます。主イエス・キリストに似た者となるために、神様の霊と導きと力を受けるために祈ります。
恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。ピリピ2章12-13節 聖書協会
クリスチャン生活の変革は神の御業です。私たち自身だけでは成し遂げられません。この目標を達成するために、私たちは、日々主イエス様の名によって祈り、神の聖霊、導き、力、そして強さを受けています。
ある人が主イエス様にこう尋ねます。「礼拝に出席し、聖餐を受け、毎日聖書を読み、毎日神に祈るなど、必要なことはすべて行いました。他に何をすればよいでしょうか。」主イエス様は彼にこう尋ねます。「あなたは私に頼っていますか。私に従っていますか。何よりも私を愛していますか?私の教えを実践していますか。私の名によって、心から祈っていますか。」
私がここで挙げたすべての基本的な事柄は、私たちがしなければならない義務的なことではありません。しかし、イエス・キリストを愛し、主に頼り、主との親密な関係を築き、主に従うという私たちの願いが込められているのです。
私たちはまだ変革の途上にいます。私たち一人一人には独自の性格と個性があります。しかし、罪深い性質ゆえに、私たちは皆、少し歪んでいるので、神様は現在形で私たちを整えてくださっています。
神様が、現在形であなたを形作ってくださっていることをご存知ですか。聖書に登場する忠実な人物たちを観察すれば、最初から偉大な信仰の人だった人は一人もいなかったことがわかります。
アブラハムは二度嘘をつきました。ヤコブは非常に臆病で、人を欺く人でした。ヨセフは非常に傲慢でした。ソロモンは自分の宮殿を建てることに非常に執着しました。ダビデは姦淫と殺人を犯しました。ペテロは利己的で、常に12人の中で一番になりたがっていました。パウロは独善的なパリサイ人でした。
クリスチャンとしての人生を、完璧に歩んでいる人はいません。イエスは聖霊を通して毎日私たちに語りかけ、毎日私たちを招いてくださいます。イエスは私たちの人生の中で働き、私たちが恐れおののきながら救いを成し遂げられるようにしてくださるのです。日々祈り、主イエス様に感謝しましょう。
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