日本のクリスチャン人口は日本の全人口の1%以下といわれます。日本という国で、キリスト者が疎外感を感じるのは、当然かもしれません。キリストの弟子であるクリスチャンは憎まれるようになると、主イエス様は預言しています。クリスチャンは嫌われる運命にあるのでしょうか。どのようにクリスチャンは疎外感に対処すべきでしょうか。
世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。ヨハネ15章18-21節 聖書協会
クリスチャンが辿る道とこの世の基準
主イエス様の弟子として、クリスチャンは忠実に主の教えに従って生きようとします。主イエス様が父なる神様に寄り頼み、すべての栄光を父なる神様に帰したように、クリスチャンも同じ道を歩もうと日々精進します。すべての力と栄光と知恵は神様にあると認識しています。
ところが、この世は人間賛歌、人間主義の世界です。すべてが人間を中心に回っています。人間の知恵と能力によって、不可能なことはないというような幻想を持っています。「不治の病も医療技術によっていつかは治療できる、人間の知恵によって世界平和が来る、科学技術の発達によって、数億年の歴史さえも知ることができる」と考えていますが、「人間の罪深さ」を忘れています。
クリスチャンは自分の罪深さを認識するだけでなく、この世全体が罪深い世界であると信じています。この世界に住んでいるすべての人間が罪人であると声高に宣言しているのです。しかし、クリスチャンではない人たちは、どのように自分自身を見ているのでしょうか。「神の御前にあって人は罪深い存在」であるという概念は、毛頭ありません。ですから、自分の人生を変える必要があるなどと考えることもないのです。
主イエス様は、真理を語ったがゆえにユダヤ教教師たちによって迫害されました。現代社会でも同じです。キリストの真理は、人の心をえぐり、痛みを伴う「悔い改め」を求めます。同様に、キリスト者は、この世に対して「キリストの福音」を宣べ伝えます。この福音メッセージは、主イエス様を受け入れる人にとっては祝福ですが、拒否する人には呪いの言葉にもなり得るのです。

迫害されて主の祝福を受ける
この世の基準に反して、「人は罪深い存在である」と認識しているクリスチャンは、嫌われる運命にあるのでしょうか。この世の中で嫌われようが憎まれようが、クリスチャンは自分の信仰を捨てることはしません。なぜなら、迫害や憎まれることは想定内のことだからです。
義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。マタイ5章10-12節 聖書協会
むしろ迫害されて主の祝福をうけるようになると、主イエス様は諭しています。人間が作りだしたカルト的なキリスト教は、主イエス様の名によって人が迷惑になると思う事をわざわざしています。迫害が自分たちの正当性を示していると考えているのですが、大きな誤解です。主イエス様は、常に人の自由意志を尊重しています。拒否している人たちに無理やり押し付けるようなことはしませんでした。来る者は拒まず、去る者は追わずの原則を行っていました。
主イエス様は、愛によって人間の罪深さを語り、罪がもたらす苦しみや悲しみから、人々を救うために福音のメッセージを語ったのです。クリスチャンも主イエス様と同じ道をたどります。それでも主イエス様を信じない人たちがいます。クリスチャンを迫害する人もいるかもしれません。そんな時、キリスト者は信仰によって主に感謝します。迫害された時に、さらにもっと大切な一歩があるのです。

クリスチャンは愛によって善を尽くす
できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。ローマ12章18-21節 聖書協会
クリスチャンは基本的に誰とでも平和的に生きようとしますが、好むと好まざるとキリストの福音のメッセージゆえに、クリスチャンが嫌われることがあります。そのような時、どのように対処すべきでしょうか。神様にお任せします。キリストの愛によって、善を尽くします。これが主イエス様が教える真理です。
クリスチャンは、神様の力を信じ、神様の裁き待ちます。神様だけが、真の平和をもたらすと信じています。ゆえに、嫌われても迫害されても、敵のために祈り神様の介入を待ち望むのです。もしかしたら、クリスチャンを嫌っていた人も自分の罪に気づき、主イエス様を信じるようになるかもしれません。
人間社会は、ある人々がいくら平和を求めてもその罪ゆえに悪くなる一方です。8月は原爆投下の記念日が、長崎、広島と続きます。その際、世界平和が裁かれます。核兵器を廃絶するように人々は叫びます。それでも戦争を続くのです。真の平和は主イエス・キリストによってだけ可能だと私は信じています。主イエス・キリストが再臨され、真の平和が来ますように、心からお祈りします。アーメン。
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