コンテンツへスキップ 投稿日:2023年8月24日/更新日:2025年5月8日

ローマ10章5節-信仰義認は旧約聖書から

信仰と救い

信仰義認の原則は、新約聖書において特に使徒パウロによって明らかにされた考えられていますが、実は信仰義認の原則は、天地万物が創造された時からすべての神の民に与えられている永遠の神の原則です。この原則は、旧約聖書に示された旧い契約においても実践されていました。万人の救いの原則です。

モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ローマ10章5-13節 聖書協会

旧い契約でも信仰による義

「モーセは、律法による義について、掟を守る人は掟によって生きる」とパウロは書いています。新しい契約下における信仰による義と比較しているのでしょうか。いいえ、そうではありません。信仰による義は、実は旧い契約が確立する以前から始まっていたのです。旧い契約以前に生きたアブラハムは信仰によって義とされました。

「律法による義」は、ユダヤ人クリスチャンへの当てつけです。ユダヤ人クリスチャンは、クリスチャンになる前は、「律法を守ることによって義とされる」と教えられそのように生きていたのです。この律法主義的な考えをもっていたユダヤ人クリスチャンを正すために、あえてパウロはこのような表現を使ったのです。

文脈に沿って読めば、パウロの真意を理解できます。パウロは、律法の書である申命記から引用して、信仰による義を立証しています。申命記に書かれているように、クリスチャンは「誰が天に上るか」、「誰が底なしの淵に下るか」と言ってはならないのです。なぜでしょうか。主イエス様がそれらの奇跡のわざをなさったらからです。

私たちは心から神の言葉を信じています。その理由はイエス・キリストにあります。イエス様は天から降りてきて下さり、十字架で死んで死の世界に行き、死から復活して天に昇られました。この事実をクリスチャンは信仰によって信じ義と認められていのです。

パウロは、このように信仰による義を主イエス様の十字架の死と復活に合わせて証明しているのです。永遠の神の原則、信仰義認の原則は、旧約聖書においても新約聖書においても変わりなく永遠であることを覚えておきましょう。

しかし、ある人たちは、旧約聖書の神様は怒りと裁きの神様であり、新約聖書の神様は愛と恵みの神様であるという印象を持っているかもしれません。また別の人たちは、旧約聖書は律法による義を教えていると考え、新約聖書は信仰による義を教えていると考えるかもしれません。しかし、これはどちらも間違った解釈だとおもいます。 旧約聖書においても、新約聖書においても、神はまったく変わっていません。同じ神を私たちは信じています。また旧約聖書においても、信仰による義が教えられているのです。

信仰義認

イエス・キリストを信じることによって

ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。ローマ10章14-17節 聖書協会

を読んでみましょう。私たちは、どのように信じたのかを、パウロは問いかけています。ここでも、パウロは、律法の書から引用して、信仰の原則を説いています。

おそらく宣教師やクリスチャンのお友達が、皆さんに聖書の言葉を教えてくださったのではないでしょうか。私も同じです。キリストの言葉を聞いて、信じるようになったのです。この信仰の原則は、旧約の時代も新約の時代も変わりはありません。

信仰は、私たち人間の霊的DNAに元々植え付けられていますが、イエス・キリストの言葉を聞くまで、その信仰に気づいていませんでした。自分の考え、知恵で生きていたからです。ところが、キリストの言葉を聞いて、初めて天の父なる神様を知るようになったのです。霊的に目覚めたのです。霊的な目が開かれ、霊的な耳が開かれて、私たちの心に信仰が生まれたのです。

しかし、キリストの言葉を聞いた人たちすべてが信じたでしょうか。悲しいですが、信じない人たちもいるのです。キリストにNOという人たちがいます。イスラエル、ユダヤ人たちはどうだったのでしょうか。先を読んでみましょう。

イスラエル、ユダヤ人たちもキリストの福音を聞いたが…

それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、「わたしは、わたしの民でない者のことであなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。 イザヤも大胆に、「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。ローマ10章18-21節 聖書協会

パウロは、旧約聖書を引用して、イスラエルの人々であるユダヤ人たちも、キリストの言葉を聞いていたことを証明しています。憐れみ深い神様は、忍耐強くイスラエルの人々に、救いの手を一日中差し伸べているのです。今、現在も差し伸べています。

同時に、イスラエル人だけでなく、天の神様は、全世界に福音メッセージを宣べて伝えているのです。全世界への福音メッセージで、天の神様は、イスラエルの人々を拒絶したのでしょうか。退けられたのでしょうか。そんなことはないとパウロはハッキリ言います。その証拠として、パウロ自身もイスラエル人であると言っています。神様はイスラエルの人々を見捨てていない例として、旧約聖書の物語からパウロは、説明しています。

約2700年前のイスラエルの話です。エリヤという預言者が当時、イスラエルで預言していました。イスラエル人たちは、近隣諸国の偶像、バールを礼拝していたのです。預言者はエリヤは、イスラエルには神様を礼拝する人はいなくなったと嘆いていました。しかし、神様は預言者エリヤに言います。7000人の人たちは、まだ偶像礼拝をしていないとハッキリ言いました。

これと同じように、いつの時代でも、どんなに数が少なくても、神様に従う人がいるのです。イスラエルの人々も同じです。神様は、イスラエルの人々を拒否している訳ではありません。今でも待っているのです。そして、イスラエルの人々の中にも、クリスチャンはいるのです。21世紀イスラエルにも、本当に数は少ないのですが、イエス・キリストを信じる人たちはいます。

キリストの言葉を素直な心で聞けば 

素直な心でキリストを求めれば、キリストの真理の言葉は、良い知らせのメッセージです。祝福のメッセージです。しかし、悪魔にだまされて聞けば、キリストの言葉は、私たちの耳には痛い言葉です。心を塞ぎたくなるような言葉です。そのような人たちは、神様を呪い、キリストを呪い、クリスチャンも呪うでしょう。

私たちは、どのようにキリストの福音の言葉に応えたらいいのでしょうか。その言葉を受け入れるのか、受け入れないのか、キリストの招きに応えるのか、応えないのか、私たち次第です。

キリストは、真理を求めている人を決して、拒否したり、追い出したりしません。真理を求めている人は、どんな過去を持っている人でも、誰でもキリストへと導かれます。これは、神様の聖霊の働きです。

私たちが、心を開いてキリストを求める時、キリストは大きな心で私たちを受け入れてくださいます。だからこそ、私たちは素直な信仰によって、キリストに近づく必要があります。頑な心を持ってはいけません。今週も、私たちが、主キリストと共に歩めますように、祈り励みましょう。

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