コンテンツへスキップ 投稿日:2025年2月24日/更新日:2025年3月10日

人の欲求願望と聖書の視点

人の欲求願望

マズローによると、人の欲求には生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現の欲求の5段階あります。管理人も心理学のクラスで学びました。これを聖書の視点で考えてみます。

人の欲求願望の励ましの歌といえば、ゆずが歌った栄光の架け橋が思い出されます。この歌は2004年アテネオリンピックのテーマソングと使われました。あの歌を聞いてまたオリンピック選手たちの活躍で、多くの人たちが、自分の欲求願望のために頑張ろうと励まされたかもしれません。また最近では、メジャーに行った野球の大谷翔平選手の活躍によって、多くの人たちが励まされています。自分の欲求願望を達成している人を、私たち人間は魅力的と思ってしまうようです。

人間が求める誉れと栄光

「少年よ、大志を抱け」の名言は、ウィリアム・S・クラークがクリスチャンのミッションスクールであった札幌農学校を去る時に、学生に残した言葉として語り伝えられています。しかし、正しくは、「少年よ、キリストにあって大志を抱け」と言ったのです。それがいつの間にか、イエス・キリストの名が削除され、「自分の欲望が叶えるようにガンバレ、大志を抱いて向上心を持ちなさい」のような励ましの言葉になってしまいました。

この向上心があるからこそ、人間社会はいろいろな技術を発展させてきましたのでしょう。人が自分の誉れと栄光を求めるのは、人間の良い部分でもあり悪い部分でもあり得ます。人の向上心は自己中心的でなりがちです。人間の向上心は裏を返せば、人の欲の表れです。そして、逆にこのような向上心がない人は、落伍者になっていくような社会に私たちは生きているのです。

いつの時代でも、多くの人たちが欲求と希望をもち、欲望に駆られて生きていきます。人よりも強くなりたい、うまくなりたい、賢くなりたい、リッチになりたいという欲求は、留まるところを知りません。人類の歴史の中で続いている人生模様です。

しかし、人間の歴史は、時代は変わっても同じようなことの繰り返しのように思えます。「かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことはこれからも起こる。太陽の下、新しいものは何一つない」と、コヘレトの言葉、伝道者の書 1章9節に書かれています。

人の欲求願望を達成した大谷選手

たとえ、人が栄華を極める栄光を得たとしても、そのような栄光に寄り頼む人生は空しいものではないでしょうか。コヘレトの言葉に次のように書かれています。

しかしなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。…目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ、どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦をもわたしの心は楽しんだ。それが、労苦からわたしが得た分であった。しかし、わたしは顧みた。この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。コヘレトの言葉 2章3-11節 聖書協会

ある物が欲しいという欲望が満たされても、その後にはまた新たな欲求が生まれてきます。欲望を満たすというイタチごっこは続きます。人が誉れと栄光を得たとしても、最後には雲散霧消の4文字熟語ごとく消えてなくなってしまいます。空に見える雲をつかもうとして、雲がある山頂に行ってもそこには何もありません。人生のゴールを追いかけても、結局、最後に残ったものは何もなかったのような経験を、多くの方々がしているのように管理人には思えます。

人の偉業は人間の記憶から空しく消えていく

人間社会は、科学技術の発展とともに多くの変化を遂げてきました。18世紀ヨーロッパにおける産業革命を始め革新的技術が、次から次へと生まれてきました。先駆者的な発明家の人たちの名前を挙げなさいとクイズが出されたら、果たして何人の名前を挙げることが出来るでしょうか。私自身、そんなに自信はありません。その位、人の記憶は危ういのです。実際、人の偉業は人間の記憶から空しく消えていきます。

賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。わたしは生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ。コヘレトの言葉、伝道者の書2章16-17節 聖書協会

上記の聖句が明らかにしているように、どんなに著名な人でも永遠に記憶されることはありません。どんなに偉大な人物でも死んで、人々の記憶から消えていくのです。これが人生の現実ではないでしょうか。人が生きている間、名誉、名声、栄光を求めるのは、風を追うようなものです。

確かにある人は自分の欲求願望を達成して自己実現します。同時に、世の中の多くの人たちは達成せずに人生を終えます。現実社会では、これらの欲求は人間を苦しめる元にもなりうるのです。

栄光の架け橋を超える神への信仰

では人間が求めるべきものとは何でしょうか。私たち人間は、神に似せられた者として創造されています。他の動植物から区別されて、創造されたのです。いわば特別なアイデンティティーが、神様によって与えられているとも言えます。その人間のアイデンティティーには、本来、神様とつながっている霊的な線が含まれていました。ところが、アダムの罪以来、私たちはこのアイデンティティーを忘れてしまったのです。私たちが忘れてしまったアイデンティティーは、主イエス・キリストによってリカバリーされ、この方を信じる人に与えられています。

本来、人間が求めるべきものは、神様との関係にあるのです。

すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも、一切の業を、隠れたこともすべて、裁きの座に引き出されるであろう。 コヘレトの言葉、伝道者の書12章13-14節 聖書協会

創造主である神様を畏れる事。これが第一の人間の本分です。神の御国と正義を求めるーこれが本来、人が求めるものです。この方は、私たちのすべてをご存じです。そして、世の終わりの時に、人類すべてを裁かれます。神様を畏れることは、主イエス様を知り信じることによって初めて可能になります。主イエス・キリストを知り、まったく新しい人生を始めてみませんか。人生の生きる意味が新しく与えられ、この狂った世の中に生きていても、人生の喜びと平安が与えられます。読者の皆様の上に、主イエス様の尊い祝福が宿りますように。

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