人間が作る宗教は、人をコントロールする、人をその団体の教理や規則で縛り付ける特徴があります。押しつけの宗教です。キリスト教も例外ではありません。キリストの名を語りながら、実はその団体の教理で人をがんじがらめにしてしまうような団体です。このようなカルトの特徴を考え、対照的に健全な教会は何かを考えます。
目次
カルトの特徴
1.マインド・コントロール
マインド・コントロールをしようとします。これはいくつかのテクニックを使って行われます。団体生活(何日間の*****セミナーなど)を通して、団体としての意思統一についていけないものは除け者にされます。教団のために奉仕できない人は、同様に救いにあずかる資格がないかように扱われてしまいます。このような内部でのいじめにも似ている扱いを受けるのです。誰もいじめの対象になりたくありませんので、人は自分自身の考えを変えざる得なくなります。
非常に極端な場合、会員たちは強制的な断食を通して極限状態におかれます。その結果、人はその苦しみから逃れたいが為に、リーダーの意思に従います。やがて団体の基準が自分自身の基準になり、他の後輩会員に押し付けるようになります。
2.私生活の検査
人の私生活の細かいところまで検査します。「朝、何時に起きて何をしたか。聖書を読んだか。」などの質問をしてきます。「どのような人とお付き合いするか」などの指導も受けます。その教えに従わない場合は、イエスの弟子としての自覚がないなどと注意を受けます。
「イエスの弟子として」、「天国に確実に行くために」などの名目で強制的な働きを求められます。たとえば、一軒、一軒、家を訪ね教会案内のチラシを配ったり、今月中に2人以上教会に友人を連れてこなければならない、と言われたりします。もし出来ない場合は、「信仰が弱い。普段の祈りが足りない。」などと先輩会員から叱られます。
3.情報の統制、管理
グループにとって不利な情報、またはメンバーの心を迷わせるような情報は、メンバーに「読ませない、見せない、聞かせない」といった情報の統制、管理が完全に行われます。
たとえ他のグループがキリスト教であっても、他のグループは100%NGという考え方が植え付けられ、自然と他の教派や宗教団体に興味を示さなくなります。「私たちは絶対正しい。他はすべて間違ている」という考え方が、堂々とまかり通ってしまうのです。このような絶対的な教団の教理に反対しないように、お互いを暗黙にチェックする機能が働くようになります。この時点で、メンバーは外との情報が遮断されてしまうのです。
4.絶対的なリーダー
絶対的なリーダーがいます。団体の絶対的なリーダーの教えは、神の声でありすべてのものが従うようにされます。これに選択の余地はありません。キリスト教の中にも、絶対的リーダーがいる教会があります。そのリーダーが提案することは、何でも通ってしまうような教会です。そのような教会はカルトと認定されても良いかもしれません。
しかし、カルトのリーダーは信者を規則、規定で縛り付けます。そこに天と地ほどの大きな違いがあります。そのリーダーの下に何人かの側近がいる場合があります。そして、それは末広がりになりピラミッドのような上下関係を持った団体もあります。
5.脅しのテクニック
カルトの特徴の中でも、脅しのテクニックは極めて悪質なものだと管理人は思います。一度、カルトに入るとなかなか脱会出来ない理由が、教団内での脅しにあるのです。ある信者が脱会のことで相談したら、幹部の人からどのような言葉が返ってくるのでしょうか。次のようなまるでヤクザの様な言葉が返ってくるのです。
「ここを離れたら、絶対あなたは地獄に行く。それでもいいのですか。」などと言ってきます。一度は脱会を決めたとしても、多くの方々はこの時点で脱会を諦めます。
脅しは、教団内のすべてのケースで用いられます。「何々しなければ、、、これをやめないと、、、、、神の裁きを受けますよ!恥ずかしくありませんか」などの表現を毎週のごとく聞くようになります。そのような言葉を聞いて怖がっていた人も、知らず知らずに他の新しい会員たちに使うようになります。本当に恐ろしい悪の循環です。
6.選ばれた民
カルト教団では、メンバー選ばれた民 と呼ばれ、そのカルト教団に属していることへのプライド、誇り、忠誠心を心に植え付けられます。そのカルト教団以外のグループは、すべて神様によって裁かれ、選ばれた民だけが救われていると教えます。人間の虚栄心を巧みに利用し、人々の心を操るのです。
聖書に書かれている「選ばれた民」の概念を巧みに操り、聖書のみことばの真意を捻じ曲げて教団全体に一人一人に植え付けていきます。「選ばれた民」の教理がひとたび教団の教理となれば、教団メンバーは右に倣えとばかり、すべての人たちがこの教理が従うようになります。これこそが、マインドコントロールの最先端の洗脳テクニックです。
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主イエス様が与える健全な教会
一方、主イエス様が与える健全な教会と信仰のl特徴は何でしょうか。イエス・キリストが建てる教会については、別の記事で書いていますが、この記事ではカルトとの違いという意味で3つに絞ってみます。
1.主イエス様だけに目を向ける信仰
イエス・キリストは12人の弟子たちを選びましたが、彼らが選ばれたというプライドやおごり高ぶりを戒めました。むしろ、彼らがイエス・キリストと同じように仕える人になるように勧めたのです。
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。マタイ20章25-28節 聖書協会
人間が作る宗教には様々な教祖がいます。キリスト教も例外ではありません。罪人である教祖に、救いの助けを求めているのがカルトの実態です。特定の教派の創始者であっても、所詮その方も罪人に過ぎません。しかし、健全な教会は、主イエス・キリストだけが人生の先生であり人生の師であると教えています。
2.キリスト者の自由
キリスト者には自由があります。誰にも束縛されない自由があります。管理人は、横田キリストの教会に属していますが、誰にも束縛されていません。
主イエス様以外に誰が、キリスト者を束縛できるのでしょうか。実際、主イエス様も私たちを束縛などしないのです。むしろ自由意志を与えています。私たちに、どのように生きるかを選ばせているのです。
多くの方々は、クリスチャンになって教会に通うようになったら束縛されるのではないかと考えていますが、それは神様の御心ではありません。事実、束縛を受けたくないから教会には行かないと言う方々に、管理人はネット上で知り合いました。教会が信者を規則によって支配している状態は、100%間違った慣例です。主イエス様は、私たちに自由意志を与えて、束縛などしないのに、なぜ教会が人間の権威によって信者を縛り付けることが出来るのでしょうか。
イエス・キリストは弟子たちを極限の状態においてマインド・コントロールするのではなく、むしろ弟子たちをリラックスした状態におき、神の御国の戒めを教えました。カルトとはまったく正反対の方法で宣教したのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」と人々に言い、彼らには自由意志があることをわからせました。カルト集団が、信者たちに対する情報コントロールするのに対して、イエス・キリストは「もっと調べなさい、学びなさい」と励ました。
3.主イエス様にあって互いに敬い支え合う信仰
最後に、健全な教会の人間関係について考えてみます。真実の教会には、主イエス様にあって互いに敬い支え合う信仰があり、健康的な人間関係が存在します。一人の人が、他の人に威圧的な言葉で何かを勧めるなんてことはあってはならないことです。
次のような言葉を、皆様の教会で聞いたことがありますか。「聖書を毎日読んでますか。祈ってますか。」このような質問は、牧師の口から出てくるようです。しかし、これは威圧であって、互いに敬い支え合う信仰の表れではありません。
兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。ガラテヤ6章1-10節 聖書協会
健全な教会では、一人一人が自分の重荷を負います。しかし、同時に、成長したクリスチャンであっても背負いきれない重荷を抱えていることがあります。そのような時には、他の人々がいっしょに重荷を背負ってあげるのです。罪に陥って苦しんでいる場合もあるかもしれません。
しかし、他の人を霊的に助けたからといって、自分が上に立つのでしょうか。そんな事はありません。なぜなら、みんな同じように悪魔にだまされやすい罪人だからです。この自覚が人を「心の貧しい人」へと導くのです。心の貧しい人は、常に主イエス様を見上げて生きていくように精進するでしょう。
健全な教会は、主イエス様を頂点として、後はみな兄弟姉妹です。誰も、霊的に他の人の上に立つことはないのです。 皆様のご感想をお待ちしています。
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