「自殺について、聖書は何を教えているか」、「神様は自殺についてどう思っているのか」を共に考えてみましょう。
聖書の中にある自殺の事例
聖書には「自殺」に相当する言葉は出てきませんが、自殺の事例が5つあります。ここでの自殺の定義は、「自ら命を絶つ」、「他の人に頼み自分の命を絶ってもらう」の2つを含みます。
- 士師記9:50-54 アビメレクの死
- 1サミエル31:1-7 サウロの死
- 2サミエル17:23 アヒトフェルの死
- 1列王記16:15-20 ジムリの死
- マタイ27:3-5 ユダの死
しかし、聖書はどれについても「自殺は罪である」、または「罪でない」とも明言していません。むしろこれらの聖句の文脈、前後関係を考慮して読んでみますと、「自殺は罪の結果としてもたらせられた」と解釈するのが適当かと私は思います。
神様は、人間が自分自身の命を絶つことを見て悲しんでおられます。人間が生きる意義を、神様の愛に見出すように望んでいます。しかしある人は、愚かにも自分の命を絶つ道を選んでしまいます。
なぜ人は自殺を選ぶのか

なぜ人は自殺を選ぶのでしょうか。それは、人生の焦点がこの世の物にあるからです。イエスは次のように言っています。
はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。
ヨハネの福音書6章25-27節
人は何のために働くのでしょうか。お金のためですか。遊ぶためですか。何のために生きるのでしょうか。単にレジャーを楽しむためでしょうか。主キリストは、これらのものは消えてなくなってしまうものである、と言っています。
一日にして自分の財産を無くした人は、もし自分の蓄えが人生そのものだ、と考えていたら、絶望して自殺の道を選んでしまいます。自分の思うように仕事がうまくいかないので死のうかと考える、絶望感を覚える、などの考えは、この世の物に焦点を当てているから浮かんできます。
人生について観点を変えてみる
自分の仕事も自分の業績、財産などは、いずれなくなってしまいます。何人の人が、仕事の業績を称えられ、後世の人々に覚えられているでしょうか。たとえ人々が自分の業績を知っていたとしても、死んだ後には究極的にそこに何の価値があるのでしょうか。
有名になるとか、栄誉を受けるとかで人の人生は決まりません。貴方の人生は、神様が貴方を愛しているからこそ、貴重なものなのです。現実、私たち人間は、日々の衣食住を得て生きるために、働いていますが、働くために生きているのではありません。生きる意味は、もっと他にあるのです。
イエスは、その永遠の命に至る食べ物を私たちに与えてくれます。人々が「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言ったとき、主キリストは次のように言いました。
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。(ヨハネ6:34-35)
ヨハネの福音書6章34—35節
現在、自殺を考えている人、また過去に考えたことがある方は、今一度、主イエス・キリストのことばをかみしめて下さい。人生の喜び、意義を、主イエス・キリストは必ずあなたに与えてくれるでしょう。