コンテンツへスキップ 投稿日:2022年11月24日/更新日:2025年5月28日

クリスチャンの十字架は単なるアクセサリーか

クリスチャンの十字架の意味

イエス・キリストは十字架にかけられ、人間の罪のために死なれました。しかし、主イエス様は十字架にかけられる前から、弟子たちに十字架を負うことの重要さを説いていました。十字架を負うのは主イエス様だけではありません。クリスチャンの十字架は単なるアクセサリーなのでしょうか。キリストが十字架につけられた事実とどのような関係があるのでしょうか。

クリスチャンの十字架は、心で言葉で行動で負うべきもの

ファッション・アクセサリーとして十字架は、一般的に受け入れられています。ですから、クリスチャンではない方々も、十字架のネックレスやピアスを身に着けているのです。しかしこれによって、多くのクリスチャンは大きな誤解をしているかもしれません。(もちろん、十字架に身に着けることに罪ではありません。)

十字架は、自分の罪に対して死に、神様に仕えるという象徴です。体に身につけても、自分の生活が十字架の生活ではなかったら何の意味もありません。十字架は、生活のすべての分野(自分の心、考え、感情、言葉、行動)で負うべきものです。常に主イエス・キリストを人生の師として見上げる信仰によって生きていれば、十字架を身に着ける必要などまったくありません。

主イエス・キリストは、神様のしもべとして、私たちに人生の足跡を残してくれました。私たちが、どのように神様に仕え人々に仕えるのかを、キリストの十字架は教えているのです。

クリスチャンの十字架

クリスチャンの十字架は、主キリストの命令

神に仕え人に仕える意味を、私たちに教えるために十字架にかけられました。主イエス様は十字架によって生き方の手本を見せました。自らの命をささげて、神に仕え人に仕える生き方を、主イエス様は実践したのです。しかし、キリストの十字架の意味はこれで終わりではありません。クリスチャンが負うべき十字架があるのです。ご自分が十字架にかけられ排斥されることを預言したあと、弟子たちに次のように言います。

それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。ルカ9章21節-24節 聖書協会

キリストと同じように、「実際に十字架にかけられ死になさい」と言っているのでしょうか。この聖句からハッキリしないかもしれません。もう一つ明確に、主イエス様が説明している聖句があります。

ヨハネとヤコブが主イエス様のもとに来て、「自分たちを主イエス様の右と左に座るようにしてください」と求めました。つまり、自分たちに主の栄光を与えてくださいと願ったのです。その時に主イエス様は次のように答えました。

イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」マルコ10章38-45節 聖書協会

主イエス様が飲む杯とは何でしょうか。主イエス様が受けるバプテスマとは何でしょうか。両方とも主イエス様の十字架の死を指しています。しかし、主イエス様は弟子であるクリスチャンも十字架にかけられ死になさいと言っているのではありません。

「自分の罪に対して死んで、神の義によって生きるように」と命じられているのです。クリスチャンは、主イエス様の生き方の模範に学び生きていきます。言い換えれば、クリスチャンは、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分のたちのために死んで復活してくださった方のために生きるのです(2コリント5章15節)。

クリスチャンの十字架

十字架:キリストの弟子として生きる

クリスチャンの元々の意味は、キリストに似せられた者です。もっとわかりやすく言うと、キリストの弟子です。弟子は、常に師であるイエス・キリストから学び続けます。学び続けなければ、弟子とは言えません。自分を捨てて、十字架を負っていくプロセスも、弟子として生きていく時、課せられているミッションです。このミッションは、重荷ではなく、イエス様と共にいくための軛です。イエス様は次のように言いました。「わたしの軛を負いわたしに学びなさい。・・・わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と。イエス様の軛は十字架を指しています。十字架を負わずして、弟子は生きていけません。主イエス様につながっていなければ、何も出来ないのです。

クリスチャンの人生は、主イエス様によって買い取られました。主イエス様に出会う前は、私自身も自分の人生だから自分の好きなことをやって、自分の欲望を満たすために生きていました。それが人間がやる自然な事だと思っていたからです。

しかし私は今主イエス・キリストを信じ、自分の人生の師として仰いでいます。ですから、以前とはまったく違った180度変わった世界観によって、この世を生きていきます。主イエス様に仕え、また周囲の人々に仕えていく心、信仰によって生きる、これがキリストの弟子であるクリスチャンの十字架の意味です。

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