人をからかう、ドッキリをしかける、人の苦を見て喜ぶ、笑うのは、どこの国でも行われています。万国共通の文化慣習とも言えます。しかし、これらの言動は、ある一線を越えるといじめになります。これらの行為を、キリストの教えに照らし合わせて考えてみます。
人の苦を見て喜ぶ、笑う
ドッキリがメインになっているバライティーTV番組は、どこの国にもあります。別に、日本に限ったことではありません。なぜかといえば、「人間は人の苦を見て喜ぶ、笑う」、そのような文化がどこにでもあるからです。
海外ではドッキリされる側は、一般の方々も含まれるようです。しかし、日本のドッキリは、主にお笑い芸人や若手のタレントさんたちがターゲットになっています。ドッキリされても、それを仕事として給料をもらっているわけですから、どんなに嫌な経験をしても笑って済ますしかないのです。中には本気でキレている人も、たまに見受けられます。それでも、最終的に笑ってことをすまします。文句はつけられません。本気で最後まで怒り心頭だったら、仕事がなくなります。
そのドッキリでバカ受けすることを言ったりすれば、視聴者の受けもよくなります。もっと他の仕事が入って来るかもしれません。だから、ドッキリは、タレントさんにとって、特にお笑い芸人さんたちにとっては、千載一遇のチャンスとも言えます。ドッキリされた時に、受けるギャグやボケを言えるのも、一流のお笑い芸人の証しと言えるかもしれません。
冗談であっても
しかしお笑い芸人が受けるドッキリではなく、一般論で考えてみましょう。たとえ冗談であっても、人にからかわれたり、容姿の欠点を指摘され笑われたりして、いい気持になる人はいないでしょう。そのような悪い意地悪をしておいて、「冗談だよ、冗談。君は冗談も受け取れないの?」と真顔で言う人がいます。
人をからかう、ドッキリ、いじめの境界線は、どこにあるのでしょうか。人をからかう側からすれば、境界線があるかもしれませんが、受ける側にとって境界線などありません。受ける側が「いじめ」と感じれば、それはいじめなのです。
私は肌の神経が敏感で、わき腹など触られると人一倍くすぐったいと感じます。あるアメリカ人が悪気もなく、私に何回もそれをやったことがありました。何度か「やめてくれよ」と言っても、その後でも何度もやってきました。最後には、私はハッキリと「やめてくれ」と言いました。私がどれほど嫌がっているかを、彼は最終的に理解して止めたのです。彼にとっては、軽い冗談であったのですが、私にとっては質の悪い嫌がらせに思えました。
やってもらいたいこと、やって欲しくないこと
稀に、人をからかうのが好きな人が、反対にからかわれると逆ギレするのを、私は何度も見たことがあります。これは不思議な現象です。自分がやって欲しくないことを、他の人にやっているのですから。
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。マタイ7章7-12節 聖書協会
私たち人間は、自分の視点でしか物事を測れないので、私たちが抱えている盲点は、人間関係でトラブルの原因になります。だからこそ、どんな国や文化でも思いやり、他の人の立場にたって考えることが求められるのでしょう。
主イエス様は、思いやりの気持ちを天の神様の憐れみと比較して、人間に当てはめています。私たち人間は、どれほど神様から恵みを受けているでしょうか。それを心の底から理解した時には、人をからかったり、人の失敗を笑ったりは出来ません。無論、主イエス様は、私たちがどれほど愚かな間違いを犯しても、それを蔑んだりはしないのです。ましてや馬鹿にしたりはしません。
主イエス様の教えに従って生きる
たとえ善意であっても悪気がなくても、人をからかったり、人の失敗を笑ったりするのは、クリスチャンとしてNGではないでしょうか。なぜなら、自分がそのようなことをされたくないからです。むしろ、人間誰しも親切にされたい、好意をもたれたいと思っているのではないでしょうか。主イエス様の戒め通りに生きていくことこそ、本来の人間の姿があると管理人は思います。
