クリスチャンになっても、人間関係は難しいと感じることはないでしょうか。私たちは主イエス様を信じていても罪深い人間です。人間関係において多少の摩擦はあります。主イエス様は、常に私たちの間に立ち、和解を促しています。この記事では、どのように壊れた人間関係を修復するのかを考えてみます。
人と仲が悪くなった時
マタイ5章23-26節を読んでみましょう。他の人と仲が悪くなっている時、どのような行動をとりますか。多くの人は、時間が解決してくれるからと考え、何もしないのではないでしょうか。気まずいし、面倒くさいと思ってしまうでしょう。わざわざ話しに行って、謝罪してまで修復する関係ではないと、多くの方々が考えるかもしれません。「あの人とは関わりをもちたくない。話す必要もない。話していると気分が悪くなる」と嫌悪感さえ持つ人もいます。
管理人も、クリスチャンになる前までは、そのような悪い人間関係から逃げていました。避けていました。「人と仲が悪くても生きていけるのだから。そのような人は自分の人生から除外していけばいい。和解なんかする必要もないし、謝る必要もない」と私は考えていました。しかし、クリスチャンになって、自分勝手な自己中心的な態度に気づきました。隣人愛の欠片もなかったのです。
主イエス様は、神を礼拝する前に他の人と和解しなさいと教えています。なぜ神様を礼拝する前に、人と和解する必要があるのでしょうか。他人と和解するよりも、神様を礼拝する方が数倍大切ではないでしょうか。主イエス様の真意は何でしょうか。
縦の関係と横の関係
クリスチャンには、縦の関係(神との関係)と横の関係(他の人たちの人間関係)があります。主イエス様は、最も大切な戒めは主なる神を愛することと隣人愛であると言いました。この縦と横の関係は、相互に影響しあっている関係であり、クリスチャン生活の土台です。縦の関係が悪ければ、横の関係にも影響するのです。その逆も真なりです。
主イエス様の教えは、神との関係が中心だと考えられがちですが、それは間違いです。横の関係、すなわち私たちの人間関係が隣人愛に基づいていると示唆しています。もし私たちが横の関係を無視したら、キリストの弟子として生きているでしょうか。
驚くべきことに、ネット上でクリスチャン同士が敵対しているのを見聞することがあります。対面ではないから、強い口調で言えるのか知りません。しかし、辛辣で強い語調の書き込みを読みますと、現代のキリスト教は本当に狂っているのではないか思わされます。主イエス様が預言しているように、クリスチャンの間でも愛が冷めている時代に入っていると実感するのです。はたして、そのような人間関係を持ちながら、神の御国に生きていると言えるでしょうか。
礼拝前に、悪い人間関係を修復
神様を礼拝する前に、人間関係を修復する必要があります。なぜでしょうか。人間関係が悪い状態で、果たして清い心で神様が出来るでしょうか。罪を悔い改めて、はじめて清い心が与えられるのです。ヤコブ4章8-10節を読んでみましょう。
謝罪だけで言い訳はしない
「ごめんなさい。私が悪かった。間違っていた」と率直に認める人になりましょう。自分の非を素直に認めましょう。実際、そのような勇気を持った人は、逆に他の人から尊敬の眼差しで見られます。
しかし謝罪に、自分の言い訳を、付け加えてしまうこともあります。私の友人が、ある人と人間関係で問題があった時のことです。その人は、「僕も謝るんだから、あの人にも謝って欲しい」と言いました。実際、これでは自分が犯した罪に対する謝罪にはなっていません。 この方の主張は、本当に自分の悪を認めていないことになります。主イエス様が言う「最後の1コンドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」とは、本当の謝罪はそれだけの覚悟が必要であると教えているのではないでしょうか。
偽善者にならないために
1ヨハネ4章20節-21節を読んでみましょう。神を愛していると言いながら、他の人と仲たがいしているクリスチャンがいれば、その方は偽クリスチャンです。神への愛と隣人愛は、お金のお札のように表裏一体の関係です。どちらかが偽であれば、全体が偽物です。片方がどんなに立派でも、もう一方が偽であれば偽物なのです。
クリスチャンも同じです。クリスチャンの方なら誰も、主イエス様に腹をたて「バカ者、愚か者」と言ったりしません。ところが、いぜ対人関係になると、多くのクリスチャンがやってしまいがちな罪なのです。
信仰によって人と和解する
クリスチャンにとって、他の人との和解は必須項目です。信仰が試される時でもあります。主イエス様の言葉を読んでみましょう。
和解の手順
マタイ18章15-20節を読んでみましょう。他のクリスチャンが自分に対して罪を犯していると思った場合、出来る事は3つあります。
- その人と直接話し合う。
- それでも聞き入れてくれない場合、和解できない場合は、信頼できるクリスチャンを証人として連れてくる。客観的に判断できる第三者のクリスチャンである必要があります。
- それでも和解できない場合は、教会の中で話し合います。
このプロセスの中で、一番大切なことは上記の聖句の最後に書かれています。2人または3人のクリスチャンが主イエス様の名によって集まり話し合う時、必ずその場に主イエス様は仲介としていらっしゃるのです。
信仰によって和解する
壊れてしまった人間関係を修復することは、決して簡単なことではありません。管理人も、非常に難しい状況に置かれた時がありました。「主イエス様がこの壊れた人間関係を修復してくださる」と信じて難局に立ち向かいました。話し合いが終わった時には、お互いに涙を流しながら祈ったのです。この経験は、その方にとっても私にとっても、霊的に成長するきっかけを与えてくれました。神様の恵みを受けたと心から感じることが出来ました。
読者の皆様は、壊れた人間関係を修復して神様の恵みを受けた経験をお持ちでしょうか。そのような経験がお持ちであれば、シェアしていただければ幸いです。読者の皆様の上に神様の尊い恵みが宿りますように。

メッセージを感謝します。
私は、クリスチャンになりたての頃 いじめっ子時代に意地悪をしてしまった同級生に星野富弘さんの詩画「日々草」のポストカードで謝罪メールを送付してました。 誰からも返信の連絡は来なかったけれども心は晴れたような気がしました。 しかし、数十年経ち他にも謝罪メールを送付しなければならない人がいた事を忘れていた事に気づきました。 まだ謝れていない事が悔やまれます、、、。 私自身もイジメられた経験はあり、辛く虚無的だった事を今でも時々思い出します。 赦すとは二度と思い出さず忘れる事だと学びましたが、心の傷というのは深くなると簡単には癒されないんだろうなと改めて思わされます。
傷つけ合って生きるのではなく、主と行き交わり愛し愛され、隣人とも両思いでいられるよう努て行きたいですね。 トモフスキーというミュージシャンが歌詞で『嫌いな人にはちゃんと嫌われてる』と歌ってました(笑)
Peace 2 U
多くの方々がそのように感じているかもしれません。クリスチャンはみんなマジメだから、すべてを正しくやろうとしがちだからかもしれません。本当は、もっと気楽な人間関係が良いのでしょうが、、、、それが結構難しいのです。
人間関係の修復は、教会だと余計に難しいと感じます。私だけですか