コンテンツへスキップ 投稿日:2022年7月10日/更新日:2025年4月26日

マタイ5章43節-敵を愛し迫害する者のために祈れ

花のブーケ

敵を愛し迫害する者のために祈れと命令した宗教家は、イエス・キリスト以外にいるのでしょうか。管理人の知る限りそのような人はいません。また、敵を愛すことを完全に実践した人も、イエス・キリスト以外にいません。普通の人間にとって、不可能と思えるようなことを命令する主イエスの真意は何でしょうか。

あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。マタイ5章5章43ー48節 聖書協会

人間の観点から見れば、キリストの教えの中で一番不思議なのは「敵を愛し迫害する者のために祈れ」ではないでしょうか。なぜ主イエス様は敵を愛しなさいと教えたのでしょうか。聖句の人気投票があったら、間違いなく一番下の方に入る聖句です。実践がもっとも難しい戒めです。ご一緒に考えてみましょう。

ユダヤ教と旧約聖書の背景

旧約聖書には「隣人を自分自身のように愛しなさい」とは書かれていますが、「隣人を愛し敵を憎め」という教えはありません。しかし、ユダヤ人教師たちは、「隣人を愛しなさい」を「隣人以外は憎め」と曲解していたのです。この解釈が、1世紀のユダヤ教の伝統の教えでした。

そうはいっても、旧約聖書には「敵を憎む」に関して、確かに難解な聖句があります。詩篇139篇21-22節はどうでしょうか。

主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み、あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし、激しい憎しみをもって彼らを憎み、彼らをわたしの敵とします。詩篇139篇21-22節 聖書協会

詩篇139篇は、ダビデの信仰告白です。ダビデは、神様に敵対する者を敵として憎むと告白しています。詩篇は神様の御言葉ですが、イスラエルの民の信仰告白の詩です。ですから、その詩の中には彼らの苦しみや悲しみを表す表現があります。

特にダビデは、神様と敵対する人々に対峙しなければなりませんでした。そのような時、ダビデは神様に助けを求めて祈りました。神様の敵を自分の敵として、御名によって戦ったのです。このような文脈で読めば、ダビデが神の敵を憎むと祈ったのも理解できるのではないでしょうか。

同時に、旧約聖書には「敵に善を施しなさい」という教えもあります。「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。」箴言25章21節 聖書協会

パウロは、ローマ12章20-21節で新しい契約の原則として、上記の聖句を引用しています。「敵を愛しなさい」は新しい契約の教えだと思われがちですが、始めから神の御心です。旧い契約の時から「敵を愛する」は教えられていたのです。

しかしながら、旧い契約の時代には、敵を愛する真の意味は明らかにされていませんでした。神の御子である主イエス様は、隣人愛として敵を愛する意味を教え実践したのです。

敵のために祈り、敵を愛しなさいの意味と実践

神の教えは、どんな教えであれクリスチャンに祝福をもたらします。私たちが嫌だなと感じる教えであっても、最終的には神様の祝福につながるのです。「敵を愛しなさい」もそんな教えの一つです。この原則なしには、理解も実践もできません。

敵を愛し迫害する者のために祈れ

正義感が強い人ほど、敵を完膚なきまで打ちのめしたくなるようです。敵が「参った。もう降参した」というまで敵を攻め続けるーこれが自分の正義のために戦っている人の態度です。ところが主イエス様の教えは100%逆です。

敵を愛し敵のために祈るとは、神様の義に飢え渇いている人だけがなせるわざです。自分の正義を求めている人には不可能なわざです。敵を愛すとは、神様の支配にひれ伏すことを意味します。神様の子供として、御前にひざまずき、敵のために祈ります。このような心から、敵を愛す愛が生まれるのです。この意味で、罪人に過ぎない私たち人間が敵を愛し祈れるのは、神様の恵みゆえできることではないでしょうか。

敵対している人間関係を持っている人は、いろいろなことで思い煩うかもしれません。サウロや自分のわが息子に、命を狙われ続けた神の人ダビデでさえ、思い悩んだかもしれません。敵に意地悪されたり、嫌味を言われるかもしれません。そのような思い煩いは、人間の心を蝕んでしまいます。

一転して、敵を愛し祈り始めると、何が起きるのでしょうか。神様の名によって敵を愛せる人は、人知を超えた恵みを受けます。心の霧がはれます。モヤモヤがなくなります。神様の支配に身を置くからです。

神様が私たちを招く高い位置

神様の愛について考えてみましょう。神様は、悪人も善人も愛しておられます。人間の悪を見て、神様は悲しんでおられますが、人への愛は無条件の愛です。その愛が悪人にも注がれています。悪を行っている敵にも、神の恵みが与えられています。そう考えますと、自分にとっては敵であっても、神様をそのような人をも愛しているのであれば、誰が憎むことができるでしょうか。

私たち人間は、善は善で、親切は親切で、愛は愛で返します。これは、古今東西、万国共通の礼儀でしょう。ギブアンドテイクの考え方です。この考え方を180度転換したのが、主イエス様です。主イエス様は、相手の態度や言動を問わず、敵であろうとなかろうと、人間を愛してくださいました。無条件の愛を示されたのです。

そして私たちにも神様と同じ愛の実践を求めています。今私たちを高い位置まで招いてくださっています。その無条件の愛を実践できるようになりなさいと、招いてくださっているのです。

天の父が完全であるように、完全な者となりない

マタイ5章48節「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」は、山上の説教マタイ5章-7章の折り返し点の聖句です。半分過ぎたところの結論と言えるかもしれません。

主イエス様は、パリサイ人たちの偽善と天の御国の生き方を比較しています。パリサイ人は、自分たちを義人と称し、神様を礼拝していました。心から出る信仰によってではなく、伝統と言い伝えを頑なに守ることによって、宗教的権威を保っていたのです。このパリサイ人の義を超えるような生き方を、キリストの弟子たちはするのです。どのようにパリサイ人の義を超えられるのでしょうか。その端的な方法の一つが、心から敵を愛し迫害するための祈ることなのです。

主イエス様が、弟子たちに求める究極の霊性とは何でしょうか。罪を犯さない生き方です。表面的な行いだけでなく、心でも罪を犯さないようにと、イエス様は教えています。つまり、「天の父が完全なように、あなたがたも完全になりなさい」という励ましの言葉に、神様の御心が示されています。天の神様が聖なる方なように、聖なる者に変えられていく生き方です。しかし、これは自分の力では成し得ません。神様の恵みに頼って初めて成せることです。日々、主イエス様によって聖霊を通して生まれ変わっている人が、またそのように日々祈っている人が、はじめてできるわざではないかと管理人は思っています。

皆様のご感想をお聞かせください。反対意見、賛成意見、どちらでも構いません。読者の皆様の上に主イエス様の尊い祝福が宿りますように、心よりお祈りします。

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