コンテンツへスキップ 投稿日:2022年9月10日/更新日:2025年5月4日

日々の食事を与えてください-マタイ6章11節

草原にある納屋

毎日の食卓に食事は用意されているでしょうか。日本にも貧困生活を送っている人たちがいると聞きますが、日々の生活の食事は本来、天の神様からいただくものです。「いただきます」は、唯一の神様、すべてを支配している神様に言っているのです。マタイ6章11節から、日々の食事を与えてくださいの祈りの意味について考えます。

わたしたちに必要な糧を今日与えてください。マタイ6章11節 聖書協会

主の祈りの構成について

主の祈りを2つに分けて考える解釈があります。前半部分の6章9-10節を、神様の栄光を褒めたたえる祈りとして、後半部分の6章11-13節を私たち人間のニーズのための祈りとして分けて考えて解釈されます。

しかし、厳密にいえば、神の栄光を求める祈りと人間のニーズを満たすための祈りは、互いに重なり合っています。6章9-10節でも、神様を褒めたたえることにより、私たち人間のニーズのために祈っています。神様の御国が来るように祈り、御心が行われるように祈って、実は自分たちのために祈っているのです。神様の御国が来て、御心が行われるのは、私たちの恵みだからです。6章11-13節でも、人間のニーズだけを祈っているようですが、実は、この祈りでも、神様の栄光を褒めたたえています。神様に寄り頼んでいるからです。「必要な糧を今日与えてください」と祈るとき、神様の御国、御名、力、栄光から切り離して祈ることは出来るでしょうか。決してそんな祈りは出来ません。この2つの部分は相互関係にあるのですから、切り離すべきではありません。

必要な糧を今日与えてください 「今日」の意味

「必要な糧を今日与えてください」 この祈りの意味は何だろうか。まず、「今日」の意味を考えてみよう。主イエス様が教える今日の意味は何だろうか。1世紀の文化を考えながら、この意味を考えてみよう。

1世紀ローマ帝国のユダヤ社会は、農業社会でした。身分が高い人も低い人もほとんどの人が、農作業に関わっていました。だからその日、その日の天候によって、人々の生活は左右されていたのです。また労働者の給料は、現在のように月払いではなく、日払いで行われていました。この意味では、現代社会では、この祈りの「今日」の意味が失われているかもしれません。

しかし、クリスチャンは、今日を精一杯生きるように命じられています。人生の時間が、神様の贈り物だからです。無駄にするものではありません。命を大切に扱い、日々、神の御国と義を求めて生きるように命じられているのです。

御心に適ったクリスチャンは、愚かな生き方はしないでしょう。過去に生きる人は、過去を悔やみ過去を引きずって生きています。未来に生きる人は、今日出来ることをやらずに、問題解決を先延ばします。そのような生き方を悔い改めたクリスチャンは、今日という日を精一杯生きます。確かに、明日どんな日になるのか?はわかりません。しかし、クリスチャンは、今日は明日のためにあるという事実を知っています。主イエス様が明日を備えてくださることを知っています。クリスチャンは、今日できることをやって、明日に備えのです。今日という日を無駄にしません。さて次のポイント、必要な糧とは何でしょうか。

日々の食事

必要な糧 肉の糧

第一に、この祈りは、神様が与えて下さる「肉の糧」を教えています。人は、食べなければ、やせ細って死んでしまうでしょう。言うまでもなく、食は人間のライフラインです。ライフラインは他にもあります。たとえば、電気、ガス、水道なで。 しかし、これらのすべてのライフラインは、神様の恵みによって与えられているのです。

クリスチャンの信仰は、マタイ5章45節に表現されています。天のおとうさまは、ご自分の太陽を昇らせているのです。私たち人間が自然現象として考えることは、神様が今でも働いているから起きているのです。原語のギリシャ語を厳密に翻訳すると、「父(彼)の太陽」となる。太陽は、父なる神様が所有しているのです。

あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(マタイ5・45)

さらにマタイ6章25-31節を読んでみよう。

だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。…信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。(マタイ6・25-31)聖書協会

この聖句には、神様が与えて下さる衣食住のライフラインが明確に書かれています。この聖句には、もう一つ大切な原理原則が示されています。神様に頼って生きるとは、神様に委ねてお任せして生きていくことです。私たち人間は、自分で変えられないことについて、思い悩みがちですが、それは愚かな事です。主に頼り、主に従って生きていく人は、自然と「必要な糧を今日与えてください」という祈りが出てくるのではないでしょうか。

必要な糧 霊の糧

第二に、この祈りは、神様が与えて下さる霊の糧を指し示しています。必要な糧は、肉の糧、衣食住だけではありません。ヨハネ6章26-27節を読んでみよう。人は、肉の糧だけで生きてはいけません。人には、肉体の命の他に、霊的な命があるからです。人は、体とともに、心が育つ必要があります。

朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。(ヨハネ6・27)

若い人は、とにかくよく食べます。実際、いつもお腹が空いているでしょう。しかし、肉体的に満たされても、心が死んでいては?どうでしょうか。人の心は、たとえクリスチャンではなくても、どこかで霊的に成長したいと叫んでいるものです。クリスチャンはなおさらです。霊的な糧をいただくためには、主イエス様を慕い求める心が必要です。

主イエス様は言いました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と。霊的な糧をいただくために、日々、聖書を読んで祈りましょう。「人は習慣をつくる、習慣が人をつくる」という言葉を聞いたことはありますか。これは本当です。

悪い習慣はすぐついてしまうが、良い習慣はなかなか難しいものです。良い習慣は、意識に実践しなければ、自分の習慣にならないからです。良い習慣は、3ヶ月かかると言われてます。ですから、「肉の糧を今日与えてください」、「霊の糧を今日与えてください」と祈る習慣を身につけてみましょう。必ず人生は変えられると思います。

天のおとうさまは、私たちが祈る時、日々、私たちを養ってくださっています。日々、私たちが必要なものを与えて下さいます。生きるために、肉の糧を与えて下さり、主にあって生きるために、霊的に成長するために霊の糧を与えて下さっています。主イエス様を信頼して今日も生きましょう。

コメントは、管理人が承認後に表示されます。保留中になります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

  • 読者の皆様の情報は、固く守られ外部に漏れることは決してありません。コメントは、管理人が承認後に表示されます。良識あるコメントをお願いします。