この罪深い世の中は、悪魔が縦横無尽に働き人々の心を欺いてます。だからこそ、クリスチャンはこの世で神様の御心が行われるように祈る必要があるのではないでしょうか。私たちは、神様によって創造されましたが、堕落して罪深い存在になってしまいました。しかし、憐み深い主イエス様の贖いのわざによって、罪の呪縛から解放されています。クリスチャンのミッションは、神様の御心が行われるように祈り、神様の栄光のために生きることだとおもいます。 主イエス様でさえ祈ったこの祈りの意味は何でしょうか、ごいっしょに考えてみましょう。
主イエス様も祈った 「わたしの願いではなく、御心のままに」

主イエス様は、十字架にかけられる前に3度「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。わたしの願いではなく、御心のままに」と祈りました。主イエス様に対する神の御心は、人間の罪のいけにえとして十字架に行くことでした。この偉大なミッションが成就するために、主イエス様は祈りました。
キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。へブル5章7-8節 聖書協会
主イエス様でさえ祈ったこの祈りに、主の祈りの「御心が行われますように」の意味が示されています。

神の御心とは?
神の御心は、神への愛と隣人愛の2つの戒めに総括されます。私たち個人個人が祈る時、これは極めて個人的な祈りともいえます。主イエス様にとって、神の御心とは十字架のミッションでした。父なる神様の命令によって、人類の罪のために主イエス様は十字架でいけにえとして死ぬことを命じられていたのです。他の誰も出来ない、主イエス様だけに与えられているミッションでした。このように、「御心が行われるように」は、個人的な観点から祈るべきだと思います。
私たちは、主イエス様を信頼して心から従っているかどうかを考え、御心が行われるようにと祈ります。また人間関係においてはどうでしょうか。隣人を自分を愛すように愛しているでしょうか。この祈りには必ず悔い改めが伴います。
この祈りには、神学的なハッキリとした理由があります。この世は、常に悪魔によって支配され悪に満たされている社会といえます。この罪深い世で生きているクリスチャンは、何が主に喜ばれるのかを吟味しなければなりません。
むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。・・・あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。 ――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。・・・愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。エペソ5章6-17節 聖書協会
しかし、クリスチャンは、悪魔の策略に対して免疫があるわけではありません。クリスチャンも、罪人ゆえに簡単に悪魔にだまされ罪を犯してしまいます。その罪は、主イエス様との関係だけでなく、人間関係にも悪影響を及ぼすでしょう。ですから、クリスチャンは自分の罪を認識して、悔い改めて主に喜ばれようにと祈るのです。御心が何であるかを、常に思いながら祈ります。

わたしの考え、願い、正義 vs 神の御心か?
主イエス様は「わたしの願いではなく、御心が行われますように」 と祈りました。自分自身の人生を振り返ってみて、どれだけ自分の考え、願い、正義を押し通してきたかを、今一度考えてみましょう。自分の考えによって、どれほどの罪を犯し続けてきたかを思い出してみましょう。ここで原点に戻って、御心に基づいた関係について考えてみます。日々の生活を「御心が行われますように」という観点から考えてみる必要があります。当然、人間の知恵に頼っていてはできません。
御心が行われるように祈る人は、自分の心を神様にさらけだします。自分自身には知恵がない、自分自身の考えが愚かなことを告白します。このプロセスで自分の考え中心の祈りから、御心中心の祈りへと移っていくのです。主イエス様のように、父なる神様の御心の前にひれ伏して、祈ってみましょう。祈りが変わります。天のお父様は、このような祈りに必ず応えて下さるからです。
このつ深い世の中で、クリスチャンが主イエス様の名によって、様々なことが行われますが、本当に神様の御心が成されているでしょうか。このような世の中でこそ、本当に神様の器が必要とされているのです。
さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。2テモテ2層20-21節 聖書協会
神様のお役にたつ器になるのに、年齢は関係ありません。またクリスチャン歴が長いのか、短いのかも関係ありません。誰でも、神様の貴い御用のために用いられる器になれるのです。そのためには、神の御心が行われるように、日々祈る必要があるのではないでしょうか。
日々の生活を、「御心が行われるように」という観点から考えてみませんか。そして実際に日々祈ってみましょう。祈りの生活が劇的に変わると思います。
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