コンテンツへスキップ 投稿日:2023年11月23日/更新日:2024年12月22日

ルカ5章27-35節、キリストを必要とする人

キリストを必要とする人

その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」

ルカの福音書5章27-35節 聖書教会

罪人を招き 

イエスの旅は一つの偉業を成し、そこに留まらず進みます。御国の到来を告げる足音が野や山に、そして街々に麗しく、喜びとなり響きます。道中イエスは収税所に座わる一人の男に目を留めます。イスラエルで憎み嫌われる取税人です。侵略者ローマ帝国の手先となり同国人から過剰な税を徴収し私腹をこやす者です。

同胞からは軽蔑されている者に聞こえるみことばです。イエスは「わたしについて来なさい」と言われます。これまで憎まれ、無視されること度々でした。その者への言葉です。みことばを聞く者にイエス様のこころ、いのちが注がれます。

「すると男は、何もかも捨てて、立ち上がってイエスに従った。」すぐに収税所を後にします。しがらみがいろいろあったでしょう。上司との関係、利権はどうなるか、家族のこと、取税人仲間との関係など、生きた年数の長さに比例し、様々なしがらみがあった筈です。それら何もかも捨てと書かれたのは、ある意味で丸裸になり、素の自分でと言ってよいと思います。

人を変える

収税所に座り、税の取り立てが出来るぐらいです。それなりの地位、責任を担える年齢であった筈です。実力を身につけて仕事にも慣れ油がのりきった時であったかもしれません。その男が何もかも捨ててとあります。主イエスの眼差し、主イエスの呼びかけのみことばの衝撃は世のしがらみのいっさいを吹き飛ばす迫力を持ちます。

人生経験をした男、生き方にも慣れた者です。その者を一変させる呼びかけです。漫然と向き合うお方ではなく、人ごとのように聞くみことばではありません。このお方のみことばを共に聴くところが主日礼拝です。新たにされる期待と緊張感が伴うところです。取税人を動かす主イエス・キリストのみことばが礼拝で起こります。

ここでは、「何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った」となります。「立ち上がって」と挿入されたみことばは、よみがえりを意味します。ローマ帝国に仕える者が、その職務を後にし、本来の生き方に出会うことです。死んだ者がよみがえります。主イエスに聞き、信じたときから本当の生き方が始まります。

ルカの福音書の解説 戸村甚栄伝道者 

変えられた者

「何もかも捨てて、主イエスに従った」何もかも捨てて、とはどのようなことか、立ち上がって従ったことはどのようなことか考えさせられます。主イエスに従う者は皆職場を放棄するでしょうか。そこが強調点ではありません。先のシモンたちは、主イエスに呼ばれ舟と湖を後にしましたが、後にその場で漁をしています。「何もかも捨てて、」は物品や生活の仕方というより、捨てる急所が他にあります。

「何もかも捨てて、立ち上がってイエスに従った」急所は「イエスに従った」にあるのではないでしょうか。今まで自分が最優先であった者が主イエスを第一とする者となったと言うことではないでしょうか。本来の自分に立ち返った、よみがえったことです。職場を放棄する者もいれば、舟や湖を一端後にする者もいれば、家族を後にする場合もあるし、そのいずれも変わらず主イエスに従うことを第一で生きることもあるのです。

主イエスが先導する人生で仲間たちや、その他大ぜいの者たちを招き食卓を囲みます。仲間たちは取税人です。レビ自身が味わった悲哀を経験している者たちです。変えられたレビにとり、世間体を考えれば仲間は招待の対象にはならなかったでしょう。地域では嫌われ憎まれる集団です。しかし、主イエスに従い取税人や罪人と食卓を囲みます。

世間体ではありません。それを捨て主イエスに従います。その他大ぜい、特に名乗るほどではない人々でしょうか。取税人たちの後に、ほかに大ぜい食卓につきます。以前のレビならどうでもよい人たちでした。むしろ憎しみや軽蔑の視線を浴びせた人たちかもしれません。全てを捨てて、主イエスに従う者の変わり様が食卓に現れます。主イエスに倣う者の姿が見えます。

呼びかけにどうする

主イエスの呼びかけ、「わたしについて来なさい」に応答する者が記録されます。三十五節以降の展開が長く続きます。しかし、ここでは主イエスの召しに注目しました。諸教会で主イエスの呼びかけにお応えする者が少なくなっているからです。ある神学校では卒業生を派遣しようとしたら、もう派遣してくださらなくてよいです、と返事があったそうです。いろいろな事情で主イエスの呼びかけにお応え出来ない状況がひろがっています。

この時代、主イエスの呼びかけ、「わたしについて来なさい」にシンプルに応答する者、教会が求められます。生活現場で主イエスに従う者が求められています。礼拝で聞く、神のみことばは「わたしについて来なさい」と今日も呼び続けます。主イエスを第一とする生活へ召し出され、それからどのような歩みにしてくださるのか主に問うことが求められます。

変えられた者を喜べない

レビの変わり様の場面で難癖をつける者が現れます。招かれた主イエスが取税人や罪人と食卓を囲むのを責めるパリサイ派や律法学者です。良いことが起こり、宴を開くからと言って皆が喜びの席に着くとは限りません。むしろ、それを機会に攻撃する者もいます。良き訪れが明らかになるにつれ攻撃が激しくなります。行く先々で罪が露わになります。

攻撃する者たちと主イエスは対話します。彼らは他のことに転じさらに挑みます。それにも主は会話を続けます。主イエスは敵対する者たちが変わることを願います。敵対する者たちをも食卓に着くよう促します。イエスは言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

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