主をあがめるマリアの賛歌

聖霊の働きにより導かれたマリア

聖霊の働きにより、男の子を受胎したマリアがエリサベトの祝福を受け歌います。歌の体裁は詩篇に似ています。旧約聖書を先祖から聞き、それに魂を込め歌い礼拝していたことが想像できます。神がマリアの唇に与えた歌でしょう。

それにしても、一つの賛美形式が山間部でも、どこであっても当然のように生まれるのは神殿礼拝が生活に浸透していたがうかがわれます。生活を通し神をあがめ、たたえることが定着していたか現われます。日常が礼拝であることがわかるような気がします。歌からマリアはなんと豊かなときを過ごしているかと憧れます。礼拝する神をこれほど親しく知っているからです。

全人類に関わること:マリアが子を宿した

マリアの賛歌

この歌の解説は、女性にお願いするほうがよいかもしれません。解説もよりリアリティがともなうと考えます。未婚という特別な事情のなか、御告げにより男の子の誕生を待ちます。いいなずけの身で、受胎し、誕生を待つ心身の状況は男性には分からない領域です。しかし、歌声を聞き続けますと、女性特有とか男性でなければとかの話ではないことが分かります。確かに女性、マリアに起こっている出来事ではありますが、中身は全人類に関わることです。マリアを通しすべての者に関わる出来事ですから、女性でなければ、男性でなければとの話にはなりません。とにかく歌を一緒にたどりましょう。

エリサベトはザカリアの妻として子を宿しますが、あまりにも高齢で起こりえない出来事です。他方いいなずけの身ではありえない、そして、社会ではあってはならない出来事に直面するマリアです。ふたりに起こったことは地上からの幸いではなく、天からの幸いの訪れです。ふたりのこころは天に向くしかありませんでした。当然の成り行きです。

マリアの賛歌

そこで、マリヤの賛歌が歌われます。私は幸いです、と始まりません。私自身がどうなのかで始まりません。私、私と言い張る、私主義で真の賛歌が失われている世です。ここは、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」主が中心です。主こそが、讃美の言葉の源です。主なる神を仰ぎ、あがめ、喜び、讃えます。ここに真の賛歌が溢れます。それ以外は渇いてしまう歌です。さらに厳しく言うなら主を除く歌は滅びます。歌い手が滅び、歌いながら破滅する悲惨です。真の神ならぬものを歌う偶像礼拝は、口を開かせ、歌わせ、歌い滅ぼします。

全身全霊に喜びの声をあげるマリアの信仰

たましいで主なる神をあがめる、霊で喜びたたえることは、身もこころも注ぎだし、全存在をかけた讃えです。からだはここにいますが、こころは別世界ですということではありません。口先だけ、喉だけの歌でありません。文字通り、御前で私の全存在を注ぎだし、心底から主なる神をあがめ、喜びたたえます、と告白します。聖なる御子を宿し、自身を含めそのすべてをもって賛歌を歌います。エリサベトとの出会いで起こった震えとは異なります。御霊の力で御子をマリアが賜った主なる神と相まみえる出来事です。自分のすべてをご存知の神へ、すべてさらけ出し、注ぎ歌います。主なる神への礼拝です。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」主イエス・キリストがキリスト者に住まわれ、御霊が宿り、その恵みを湛える器として御前に集う私たちの礼拝の一つの原型がマリヤの姿にあります。主の憐れみにある存在と行動が一体化する礼拝です。

主の御前に立つマリア

主なる神の御前に立つマリヤは自分を知ることになります。自分のありのままを告白します。神がおられるからわたしが在ります。新改訳では「主はこの卑しいはしために、目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」共同訳では「わたしのようなつまらない者」とあり、新共同訳では「身分の低い、この主のはしためにも」と表現されます。はしための言葉の原意は奴隷です。身分の低い、卑しいと訳されてよいでしょう。共同訳の「つまらない」はどうかと思います。いずれにしても、主なる神の御前では主の奴隷です。主のものです。主に仕えることが存在のすべてです。創造主、救い主、導きの主を認める祝福された奴隷です。贖い主の奴隷、十字架の主の奴隷であることを発見する祝福です。マリアは全人類を代表して主なる神の御前で、恵まれた人間の現実存在を告白したのです。

神の御名にふさわしい賛美の歌

このたましいから御名にふさわしい賛美の歌が生まれるのです。「ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」マリア自身だけではなく、マリア以降の人々が関わる事が明らかになります。それにしても、人々はなぜマリヤをしあわせ者と思うのでしょうか。マリアが直面するのは非道徳的、反社会的行為のように見えます。それにもかかわらず、なぜ、マリアは人々が時代を超え、地域を超えて「私をしあわせ者と思うでしょう」と歌えたでしょうか。主なる神が目を留めてくださったからです。その眼差しにマリアはみこころのままにと告白します。神との交わりを体験し、神の約束を体感し、神の御子をさずかったのです。すべての源である主なる神、しあわせの泉である主なる神のものとされたマリアは、信仰の目からはしあわせ者です。

新しい時代の到来の預言を賛美

その根拠を歌います。「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」わたしのみならず、その力は時代を超えて明らかになります。自分から、主を恐れかしこむ者すべてに拡大する主の力の現われを歌います。ここに至ってはマリアだけのことではなく、マリアを超え、マリアを器として主なる神の力ある訪れを預言します。先ず、権力におぼれ傲慢な者を追い散らします。その地位に高ぶる者を王位から引き下ろします。世の力の行為に否を宣言します。そして、低い者を高く引き上げます。マリア自身体験しています。「主はこの卑しいはしために、目を留めてくださったからです。」さらに、力で拡大、支配する国家の在り方をくつがえす、新しい時代の到来を預言します。

餓えた者へのメッセージ、富める者へのメッセージ

そして、身近なことに触れます。「飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」これもまた、当時の社会体制ではありえないことです。飢えた者はさらに困窮の生活を余儀なくされ、富む者はさらに富を増やす社会でした。飢え、富の格差は現代の比ではないでしょう。同様な問題は止むことはありません、富を持つ者はさらに富を増やし易く。貧困にあえぐ者は世代を越え貧困を抱えます。主なる神は、この世の仕組みを逆転させます、とマリアが歌います。聞く立場では、喜びと希望、慰めの歌となりますが、また脅威の歌ともなります。聞く耳が世の弱者か、それとも、世のやり方で強者となっているかで、聞く耳に慰めと希望になり、また脅威となります。

憐れみ深い主はアブラハムとの約束を守られる

主は不変なところに立ちます。「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。」主のあわれみはとこしえであり、主のしもべをいつまでも、どこまでも助けます。その確信を裏付ける歌が父祖たち、アブラハムとその子孫が受けたあわれみです。いまとこれから注がれる主のあわれみを思うとき、はるか古の父祖アブラハムとの約束、それを完全に成就された現実に立つマリヤには歌いきれないこころが湧いたでしょう。ですから、主が語られた通りです、としか言えないのです。

主のゆるぎないあわれみを体験するマリヤが、父祖アブラハムの名で歌います。望みえないのに望んだサラの出産を思い浮かべたでしょう。信仰の父、イスラエルの民にとって忘れ難い信仰の先人を思い歌います。

人生の危機であれ、神の御業の時であれ

人生の危機であれ、神の御業体験のときであれ、御前に集い御名をたたえるときに信仰の先達を思い起こします。そのように神の偉業を賛美できることは幸いです。集う会堂の壁に、床に、天井に、会堂全体に先人の祈りの闘いと賛美がしみこんでいることを想起し、礼拝をささげることは今日のキリスト者へのちからとなります。

英国をたずねた折、築千三百年余りの礼拝堂を訪れました。礼拝堂の壁に各国へ送り出した宣教師の名が刻印されていました。年代は忘れましたが、札幌の名と人名が刻まれていました。胸が熱くなる思いでした。会堂の床には召された者が眠っているとの説明を受けました。地上の生涯を終えなお主の群れを支える信仰に感激したことを思い出します。主は私の羊飼い、主はあの人、この人の羊飼いであった。行く先を知らず荒れ野を旅したときの羊飼いは私たちの主でした。だから、主のあわれみは代々にわたっておよびます、と歌うのです。

マリアとエリサベトの霊にある交わり

山間部に響く主への賛歌が響く中、マリアとエリサベとは三ヶ月共に暮らします。ルカはマリアの口から放たれた言葉を調査し、記ながら、自分もこころ躍らせ歌ったでしょう。マリアは家に帰ったとあります。ヨセフの待つ家に帰ったでしょう。帰るべき家をめざし山里を急いだでしょう。歌をヨセフと分かつため。待ち人がいる家に帰るのです。

そうは言っても、なかには長年連れ添った伴侶を御もとへ送り、家は静まり、ただいま、に応答する声が聞こえません。今日はどうでした、と問う声も聞こえません。夜道の帰宅時に窓には灯火は見えません。寂しさが襲います。それでも、帰るところは、かしらなる主イエス・キリストが生きる教会です。主よ!慰めと励ましで我がたましいを癒し、支えてください。この主の家、教会に私たちは帰り集い、マリヤの賛歌を聞き、御名を賛美しながら、帰るべき御国への旅をしています。私たちの賛美を主に捧げつつ、ハレルヤ!アーメン!と告白しながら。

One comment

  1. 日常が礼拝ということ、それこそが一番の恵み! 私たちも時によって御霊が宿ったり、日によって居なくなったりではない、ということを味わって日々暮らしていけますように。

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