キリスト教は同性愛に関して混迷を極めています。同性愛を認める教会があり、同性愛者を自認する牧師がいます。このようなキリスト教の状況の中で、聖書と同性愛をどのように解釈すべきでしょうか。聖書をどのように読むか、現代医学をどのようにとらえるかにかかっています。同性愛は罪なのでしょうか。
古代からある同性愛
同性愛は、今に始まったことではなく古代からある性的な慣習です。古代では特に男性同士の同性愛がさかんに行われていたという記録が残っています。上流社会の男性が、若い少年を相手にしていた絵図が発見されています。ここ数十年の間に同性愛が一般的に認知されてきたと思われがちですが、実は同性愛は聖書が示している通り、大昔からある風習です。
それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。(ローマ1章26節-27節)
現代医学が定める性同一性障害
現代医学は、自分の性をはっきり認識できない人たちを性同一性障害と定めています。疾患として取り扱われています。そのような方々は、性転換手術で性別を変更したり、また性転換はせずに同性同士でカップルとして生活しておられます。
このような背景を受けて、ローマ教皇フランシスコは教会内外でLGBTQに寛容な発言をしていました。その寛容さも行き詰ってしまいました。2021年3月15日に、ローマ教皇庁(バチカン)は同性愛を罪であるという声明を出しました。 性同一性障害も参考に。

同性愛は罪か、神の御心か、神の御心に反することか
さて同性愛は罪なのでしょうか。この質問に答える前に、人間の罪と性をどのように解釈すべきかを考えてみましょう。
人それぞれ、生まれながらの性格をもっています。育った環境によって育んだ性格もあるでしょう。しかし、生まれながらの性格があります。短気な人もいれば、のんびり屋の人もいるでしょう。これと同じように、同性愛は医学的には生まれながらのもとと考えられています。先天性のものだと思われています。
しかし、怒りっぽい人は生まれつきだから、直す必要がないのでしょうか。怒りで人を傷つけてしまっても、不可抗力だから仕方ないのでしょうか。確かに人の性格には先天的なものがあるでしょう。だからといって、すべてがOKにはなりません。
私たち人間は、完全無垢な者(罪をまだ犯していない者)として、母の胎内から生まれてきます。(人間の原罪については他のページで解説します。)しかし、私たちは、ロボットや機械のように同じふうには創られていません。それぞれ個性をもって生まれてきます。しかし、人の個性は、悪魔の誘惑によって、火がつけられ油が注がれて、歪んだ人間の性になります。その性によって、人は罪を犯すのです。
同性愛は、個人の選択の自由として許容されるべきか
「他人に迷惑をかけなければ、何をやっても自由であるべきである」という考え方があります。確かに同性愛は、個人の性的趣向の問題です。他の人が裁くことはできません。しかし、私たちの創造主なる神はどのように考えているのでしょうか。
この世の中では他人に迷惑をかけていなくても、私たち人間は、個人の自由によって神の御心に反する罪を犯します。例えば、心の内に秘められた思い煩いは、誰にも迷惑をかけることはありませんが、神の御心ではありません。たとえ、それが先天的な性格からくる思い煩いであっても、是正されなければなりません。心の内にある同性愛も同様に正されるべきです。
すべての罪の種は誰の心にも宿っています。同性愛も然りです。誰にでも同性愛の心はあるのです。「男が男に惚れる」という表現がありますが、これは性的な意味は含まれていません。「素晴らしい男らしい人である」と他の男性が尊敬する、惚れこんでしまうような場合です。しかし、この尊敬の念もある一線を越えると、同性愛になってしまうでしょう。
人間の愛は、肉体的な愛、性的な愛だけではありません。愛には、人を愛おしく感じる思いが含まれています。同性に対してそのように感じることもあるかもしれません。しかし、それが一線を越えれば、同性同士が肉体的にも性的にも求め合う同性愛に発展しまうのではないでしょうか。
教会はどのように対応すべきか
罪は心の問題であるがゆえに、その人、個人が対処しなければならない問題です。この点において、同性愛が特別に悪であるということはありません。思い煩いや怒りと同じです。罪の心は制御されるべきでしょう。
教会は、同性愛者を一律に拒絶はできません。もしそんなことをしたら、教会に来れる人は一人もいません。なぜなら、すべての人間は罪という問題を抱えているからです。教会は、その罪の性質がどんなものであろうと、人々を受け入れるべきです。
神の御心に適った生き方を、根気強く忍耐強く教会は教え続ける責務を負っているのです。同性愛だけにスポットを当てるようなことは愚の骨頂です。主イエス様は、来る者は誰をも拒絶せずに受け入れました。律法学者とパリサイ人たちによって姦淫の罪のために捕らえられた女性に対して、主イエス様が言った言葉を読んでみましょう。
わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。ヨハネ8章11節 聖書協会
主イエス様は、姦淫の女性を罪に定めることはしませんでしたが、もう罪を犯さないようにと戒めました。この態度が教会にも求められています。私たちは、誰をも裁くことは出来ません。なぜなら、私たちも罪人に過ぎないからです。
結論 神だけが、人間を裁く権威をもっている
最後の審判の時に最終的に、神がすべての人間を裁きます。主イエス様の再臨の時まで、私たちは、時が良くても悪くても、神の御言葉を宣べ伝えなければなりません。忍耐強く教える責務を教会は負っています。後は、神にすべてをお任せするのです。私たちは聖書を引用して神の御言葉を伝えても、人を裁く権利は与えられていません。裁きは、神様の領域だからです。すべての罪は神の御前に明らかにされる時が来ます。その主の再臨の日を待ち望みましょう。
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