キリストは、シモンに岩という意味の新しい名前を与えました。シモン・ペテロは、キリストによって新しく造り変えらたのです。クリスチャンの新生は、サナギがチョウチョになる過程に似ています。
クリスチャンはキリストの弟子である
現代社会では、誰かの弟子になることは、稀です。ほとんどありません。だから、キリストの弟子の意味を、いざ考え、実践するとなると、難しいと考える場合もあります。しかし、それでもクリスチャンは、弟子として生きる意味について考えるべきだと思います。
ヨハネ1章35-42節を読んでみましょう。ここで弟子という言葉がでてきます。弟子とは、誰かについて行く、従う人です。ヨハネの弟子であった2人は、今度はイエス・キリストの弟子になったのです。その内の一人、アンデレは血のつながった兄弟シモンにキリストについて話しました。そして、シモンはキリストに出会ったのです。
ここでイエス・キリストは、「あなたの名前はケファ、つまり岩に変えられる」とシモンに言いました。これには象徴的な意味があります。ペテロは、口が達者で、考えるよりも前に、つい言葉がでてしまような人でした。しかし、キリストは、彼の人格を変え、岩のようにドッシリした人、教会のリーダーに変えると宣言したのです。これは、ペテロという使徒になった特別な男性の物語ではありません。
弟子は、キリストによって造り変えられる
まず、クリスチャンは、キリストの弟子であることを知りましょう。さらにもう一つ大切な視点があります。それは、ペテロがキリストによって造り変えられたように、弟子は、キリストに新しく造り変えられるのです。
私たちは、それぞれキリストによって、どんな名前が与えられているのでしょうか。どんな人間になれるように、キリストは私たちに望んでいるのでしょうか。どんなプロセスで人は、変えられるのでしょうか。人には持って生まれた性格があります。その性格をも、キリストは変えるのでしょうか。少なくとも、考え方、心の持ち方、言動は、キリストによって変えられるのではないでしょうか。ペテロの場合は、口から生まれたような、しっかり考える前に何でも言ってしまうような軽い人間から、どっしりした人格に変えられました。
サナギからチョウチョへ変えられるプロセス
私たちが造り変えられる時、共通したプロセスがあります。人がキリストの弟子として生きていく時、その造り変えられるプロセスは、サナギがチョウチョになるのに似ています。
サナギは何をしているのでしょうか。じっとして動きません。何もしないで眠っているのではないのです。チョウチョになれるまで、じっと待っているのです。自然の摂理に従っているのです。サナギからチョウチョになる間は、少しサナギにとってつらい時でもあります。
最後のプロセスでは、サナギは力を入れて、殻から抜け出さなくてはなりません。このプロセスがあって、初めて、チョウチョとして新しく造り変えられて生きるのです。しかし、この途中で、鋏を入れてサナギが出るのを助けたらどうでしょうか。これはうまく行きません。サナギは、チョウチョとして成長することができなくなってしまうのです。
実はクリスチャンも同じです。キリストの教えに、素直に従うのです。自分の知恵で何かを始めようとかせずに、キリストに従う時があるからこそ、花開くのです。自分の殻を破って、新しい人間に新しく造り変えられます。じっとして我慢して、キリストに従って初めて、キリストによって、造り変えられるのです。
信仰によって、弱さを主に委ねる
しかしここで問題が発生します。私たちには、それぞれ弱さがあるからです。弱点、短所があります。その弱さを、どうしても克服できない時があるのです。ここが肝心要です。ペテロも弱点がありました。弱さがありました。なぜ彼は変えられたのでしょうか。ペテロは、自分の弱さに悲しみ、苦しみ、その後で主イエス・キリストに委ねたのです。サナギのようにじっとして、主イエスに従うだけでした。自分の考えで何とかしようとか、あれをやればいいとか、考えなかったのです。
自分で何とかしようなんて気持ちを、あきらめるのです。ある意味、開き直るのです。そして、神に祈ります。弱さを告白します。悔い改めの心をくださいと祈ります。弱さを強さに変えてください、と心から祈ります。
成長するクリスチャンは、何度もサナギのようになり、何度もチョウチョになるのです。この新生を何度も経験します。じっとして、主を待ち望み、主に従わなければいけない時があります。自分の考え、思いを意識的に捨てて、信仰によって主に委ねる時が必ずあります。このプロセスがあって、はじめてクリスチャンは、霊的な成長を経験するのです。
キリストの弟子は、主に忠実でありたいと願う
キリストの弟子は、信仰によって、キリストの教えが自分にとってベストだと知っています。その信頼があるから、たとえキリストの教えの意味がわからなくても、従うのです。さらに、弟子はキリストに忠実な者でありたいと願います。
マタイ25章14-30節に、主の忠実な弟子になるためのヒントがあります。この箇所は長いので読まないで、ちょっとわかりやすく現代文に変えて要約します。
ある主人が、3人の召使たちに、彼らの能力に応じて、自分の財産を委ねて、旅に出ます。5の能力を持っている人には5万円、2の能力を持っている人には2万円、1の能力を持っている人には1万円を預けて委ねたのです。召使たちは、それを使って増やすように命じられました。5つの能力の人は、5万円儲けて10万にしました。2の能力の人は2万円儲けて4万円にしたのです。ところが、1の能力の人は、失敗を恐れて怖くなって、その1万円を穴に埋めて隠しておきました。
そこで、主人が旅から帰ってきました。最初の財産を倍にした5の能力の人にも、2の能力の人にも、主人は次のように労いの言葉を言いました。「忠実な良いしもべだ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人といっしょに喜んでくれ。」
ところが1の能力の人は、「私は怖くなって、ご主人様のお金を穴に埋めておいて隠しておきました。この通り、あなたが預けてくださった1万円は、元通りここにあります。どうか受け取ってください」と言いました。何と主人は、「この怠け者め。お前は暗闇に行ってしまえ」と言って、このしもべを怒ったのです。
この世の中の基準では、成績優秀な人が昇進します。他の人よりも、ほめられます。しかし神様の基準は違います。自分の能力を使っている人が、誰でも褒められるのです。能力を使っている人は誰でも、平等に扱われるのです。ところが、出来ることをやらない人に対しては、神様は厳しい裁きをなさいます。主イエス様は、私たちに出来ないこと、能力以上のことをやりなさいとは、決して言いません。
失敗ありきの人生観
誰も失敗しようとして、失敗するわけではありません。また、私も含めて、多くの人は失敗を恐れます。失敗して恥をかいたら、どうしようと悩んだり、失敗をして、今少し持っているある自信を失ってしまうのが怖いと感じる人もいます。
人生において、失敗しない人などいないのです。失敗から学び続けて、人は成長します。もし失敗から学べば、失敗ではなくまさに成功につながります。
何回の失敗で、挑戦しなくなってしまった人は、グラスの中に入っているノミに似ています。ガラスの蓋をします。ノミはジャンプしても、壁に当たるだけです。何度もやっている内に、疲れてきてしまってやる気が無くなってしまいます。その後、ガラスを蓋を取ります。しかし、ノミは気づきません。もうジャンプしないのです。
イエス様のたとえ話に出てくる1つの能力の人も、きっとこのような人だったのかもしれません。彼は何回も失敗をして、さらなるトライはできなかったのです。自分に能力があったのに、それを使わなかったのです。自分ができるのに、やらない。これは愚かなことです。
キリストの忠実な弟子になるために
ではキリストの忠実なしもべになるために、私たちはどのような心を持つべきでしょうか。自分の弱さを告白するへりくだった心、謙虚な心、信仰をもちましょう。
ここで1つの大切なことを認識しておきましょう。あのたとえ話に出てきた1の能力を持った人も、自分の弱さを告白する謙虚な心を持っていたのです。しかしこの人に足りなかったのは、自分の殻を破って出てくる信仰だったのです。サナギになっている時に、じっと待って神に従う信仰がなかったのです。だから、いざ自分の能力を使う時には、怖くなって、その能力さえも穴の中に埋めて、まるで自分には何の能力もないかのようになってしまったのです。
信仰は、サナギのように、じっとして神を待ち、主イエスの教えに無言で従う心です。教えの意味が分からなくても、少し不自然であっても、合理的でなくても、キリストの教えに従うことが、自分に最高の祝福をもたらすと信じていれば、従うのです。それが、イエス・キリストが教える信仰です。
私たちは新しく造り変えられる
クリスチャンの人生は、悔い改めて、サナギになりじっと神の業をまって、キリストに従い、最後にチョウチョになり実を結ぶという繰り返しなのです。
ペテロは、主キリストによって新しく造り変えられました。それは1日で成し遂げられたのでしょうか。彼は、実際何度も失敗して、成長したのです。信仰の挫折を経験しました。それでも、彼は信仰によって立ち上がって、岩のようにドッシリした人になっていたのです。
さてここで、自分自身を振り返ってみましょう。自己吟味は、個人個人がやるしかありません。自分がキリストの教え通りに、造り変えられているでしょうか。自分の弱点を言い訳に使っていることは、ないでしょうか。私自身も使っていましたが、いつからか、わかりませんが、神の底から心から祈るようになったのです。何かを始めようとしたとき、自分が先に考えて行動に移すのではなくて、先に祈ることにしたのです。これこそサナギがじっと我慢して、神の答えを待つのに似ていると思います。
ペテロも私たちも、何ら変わりのない、ただの人間です。弱点がある人間です。もしペテロが新しく造り変えられたのであれば、私たちも同じように変えられるのです。そんな新しい自分に、出会ってみたいと思いませんか。
