コンテンツへスキップ 投稿日:2023年4月21日/更新日:2025年4月11日

ヨハネの福音書9章-信じるか信じないか

盲人が癒される

多くのクリスチャンは、信仰を信じるか信じないかの二者択一で考えています。しかし、これはクリスチャンが持つ信仰の真実を語っていません。信仰は、主イエス様の祝福を通して徐々に成長していきます。ヨハネ9章を解説して、クリスチャン信仰の真実を探ります。

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。…イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。…:そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」…そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。…さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」…彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。…」彼は答えて言った。「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」ヨハネ9章1‐33節 聖書協会

ヨハネ9章は、ある盲人の人が主イエス・キリストによって癒され、目が見えるようになった話です。この人が物乞いをしていた盲人だと知っていた人たちは、彼にどのように目が見えるようになったかを尋ねます。しかし、この人はイエス・キリストが誰なのか、どんな人なのか、どこにいるかも知りません。自分が生まれつき盲人であったけれど、このある人に癒されて見えるようになったことだけを認識していたのです。これが彼の最初の信仰の始まりです。

「あの方は預言者です」と信仰告白

癒された人は、パリサイ人たちに連れていかれました。そして彼は同じように尋問を受けるのです。パリサイ人たちは、癒し主がイエスであると想像していましたが、実際にはハッキリとしらなかったのです。そこで彼らは、癒された本人に「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどのように思うのか」と聞くしかありませんでした。

彼は、ユダヤ教の権威者たちであるパリサイ人たちに「あの方は預言者です」と信仰告白をしたのです。これは勇気ある発言です。盲人であり罪人の最たる者として見下げられていた人が、パリサイ人たちに信仰告白したのですから。

そこでパリサイ人たちは、なぜ目が見えるようになったのかを彼の両親に問い詰めます。生まれつき盲人であったのは、嘘ではないかと疑い始めたのです。頑な心は奇跡を見ても、真理を拒み続けました。

信じるか信じないか

「あたながたもあの方の弟子になりたいのか」

パリサイ人たちは再度、彼を呼び出して厳しく詰問します。彼らは完全に悪魔にだまされ、イエスが罪人であると信じ込んでいました。ところが、彼はパリサイ人たちの宗教的な権威に挑戦し始めます。

自分が盲人であったけれど、イエスが癒してくれたことの事実を告白します。パリサイ人たちがイエスに興味を持っているのを知り、皮肉として「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」とチャレンジするのです。「あの方は預言者です」という告白以上の信仰で、パリサイ人たちの不信仰を逆にチャレンジしたのです。さらにこの会話の中で、彼は自分の信仰告白することにより、パリサイ人たちに説教をし始めたのです。これにはパリサイ人たちは怒り心頭しました。

ユダヤ教指導者に叱責されても、彼の信仰告白はここで終わりませんでした。イエス・キリストが神から来たのでなければ、自分の目を癒すことなど出来ないと宣言します。これこそ究極の信仰告白です。この信仰告白の結果、彼は追い出されてしまいます。

主イエス様を見て信じる

この人は、再度イエス・キリストに出会います。盲目の時は声は聞いていましたが、姿は見ることはできませでした。彼は、今、面と向かってイエス・キリストを見たのです。キリストを信じたいという信仰から、キリストを見て、「主よ、わたしは信じます」に変えられたのです。

信仰はこのように徐々に成長していきます。この話は、2000年も前の話ですが、私たちの信仰も同じように成長していきます。主イエス・キリストは最後に言いました。

わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。ヨハネ9章39節 聖書協会

自分は人生について見えると思う人は、最終的には見えなくなってしまいます。ところがイエス・キリストに助けを求める人は、人生の道をハッキリと見極めることが出来るようになります。心に光明を受けて、暗闇から抜け出せるのです。

今、私たちは肉眼でイエス・キリストを見ることは出来ませんが、多くの人たちは信じて素晴らしい神様の恵と愛に満たされた人生を送っておられます。主イエス様は死から再臨された後、天に上げられました。この後、3000人の人々がクリスチャンになり教会が始まったのです。しかし、この人たちも我々と同じように、主イエス様を肉眼で見ることはなかったのです。神様は霊なる方です。目に見えないところで働いておられるお方です。だから、主イエス様は次のように言っています。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。

現在、主イエス様は天地万物のすべてを支配しておられ、父なる神様の右に座っておられます。あなたは主イエス様に興味をお持ちでしょうか。主イエス・キリストによって、心の目が開かれますように。また主イエス様の尊い愛に満たされますように、心よりお祈り申し上げます。