ユダヤ教律法学者の信仰を覆したキリストのことばを検証してみます。ユダヤ教律法学者にとって、信仰の礎は神のみことばである律法にありましたが、彼らの信仰の中枢に、信仰の父アブラハムが敬われていたのです。彼らの信仰の父であったのです。ところが主イエス・キリストは、ご自分がアブラハム以前から存在していたと言ったのです。この言葉に律法学者たちは怒りました。その経緯を読んでみましょう。
ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」ヨハネ8章52-59節 聖書協会
ヨハネの福音書には、ユダヤ教律法学者たちが主イエス様に罠をかけるような質問をしたり、また宗教の権威をかさに主イエス様を取り囲んで責め立てる記録が多く残されています。その中でも8章52-59節は、ハイライト的な場面です。なぜなら、主イエス様は彼らの信仰の礎を砕いたからです。
ユダヤ人たちの信仰の礎
ユダヤ教の信仰の礎は律法にある、とユダヤ人たちは自負していました。しかし、律法とは別に昔から言い伝えられた教えを守ることが、ユダヤ人たちの信仰の礎だったのです。その言い伝えの教えの伝統を、律法学者たちは、その言い伝えの教えに聖書のみことばと同等の権威を持たせていたのです。言い伝えの伝統が、ユダヤ教の信仰の礎でした。
2本の柱の内の一つです。
もう一つの信仰の柱は、信仰の父アブラハムにありました。
その律法を解釈した昔からの言い伝えの伝統を、神様のみことばと同じ権威があるものとして築き上げていきました。
しかし、ユダヤ人たちは律法の意味さえも理解していませんでした。主イエス・キリストは、ユダヤ人たちが言い伝えの教えゆえに、神の御言葉をないがしろにしていると言ったのです。
信仰の父アブラハム
ユダヤ人たちの信仰の礎は、もう一つあります。信仰の父アブラハムです。伝統の教えが信仰の礎の一つの柱とすれば、信仰の父アブラハムはもう一つの柱です。
ユダヤ人たちは、自分たちこそアブラハムの子孫であると自負していました。モーセが律法を与える前から、神の民としてイスラエルは選ばれていたのです。ユダヤ人たちは、イスラエルの12族の中で、最後の残された部族です。彼らだけが、アブラハムの祝福を受ける唯一の民族であると考えていました。
創世記12章1‐3節で、主なる神様はアブラハムに祝福を与えると約束されました。確かに歴史的に考えれば、ユダヤ人たちはアブラハムに約束された恵みを受ける特権を持っていました。ユダヤ人たちは、この信仰の父アブラハムに望みを置いていたのです。
パリサイ人たちや律法学者たちは、自分たちの権威が脅かされるのを恐れて、主イエス・キリストに何度も罠にはめようとします。殺すしかないと考えるようになりますが、自分たちの手で殺すわけにはいかないので、ローマの法律によって十字架刑にさせたのです。
参照記事
主イエス・キリストはアブラハムが生まれる前から
「数千年も前にアブラハムは死んでしまったのに、50歳にならないこの男がアブラハムのことを知っているなんてありえない。この男はいったい何者だと思っているんだ!」とユダヤ人は思ったのも当然です。
!これらの疑問に対して、主イエス・キリストは、ユダヤ人たちにとって驚愕の発言をします。アブラハムが生まれる前から、主イエス・キリストは存在していたと言うのです。これはどのような意味でしょうか。
ユダヤ人たちが神と崇めている方を、主イエス・キリストは自分の父であり、父の命じられたとおりに御言葉を語っているだけであると証言したのです。そして、ご自分が天の神と同様に永遠の存在であるとハッキリいいました。この言葉を聞いて、ユダヤ人たちは「この男は神を冒涜している」と考えますます殺意を覚えるようになったのです。
私たちはどのように応えるべきか
このメッセージを聞いた私たちはどのように応えるべきでしょうか。主イエス・キリストが生誕してから約2000年が経ちますが、メッセージの本質は変わっていません。なぜなら、人間は愛も変わらず愚かな罪を犯し続けているからです。宇宙にロケットを飛ばせるようになっても、通信網がどんなに発達しようと、私たちの世界は罪で満たされています。
愚かな人間たちを、主イエス様は救うために天から降ってくださいました。生き方を教えて下さっています。生き方はいろいろありますが、この方を信頼して生きるのが、最善の生き方です。祝福の生き方です。主イエス・キリストを心から信じましょう。