嘘は人間社会において、時として避けられない行為とされます。しかし、嘘をつくことが許されるのか、それとも道徳的に問題があるのかという議論は、今なお続いています。本記事では、「嘘はついてもいいのか」というテーマを掘り下げ、心の中に潜む悪について考察します。また、嘘をつく際の2つの原則を明らかにし、それが私たちの倫理観にどのように影響を与えるのかを探ります。人間の心の複雑さと嘘の本質について、一緒に考えてみましょう。
嘘という行為は、私たちの生活の中でしばしば直面するテーマです。嘘の影響は、個人の関係性や社会全体にまで及びます。例えば、友人同士の関係において、小さな嘘が徐々に信頼を損なう要因となり、最終的には関係が破綻するケースが多々あります。このように、嘘は短期的には利益をもたらすかもしれませんが、長期的には重大な結果を引き起こす可能性があります。
新潟県警の本部長の場合は?
「2000年1月28日に新潟県警の本部長が賭けマージャンをやっていた」ことが発覚して辞任を申し出ました。このような事件があまりに多すぎて、もう記憶には残っていないかもしれません。この報道がされた数日後、私はJR中央線上り東京行きに乗っていました。非常に品の良い3人の女性が、私の前に座って、何やら新潟県警の事件について話していたのです。耳が遠い方々だったのか、理由はわかりませんが、私にもはっきり聞こえる大声で話していました。次のような会話が耳に入ってきました。
女性A:あの本部長、良く正直に言ったわね。言う必要なかったんじゃない。
女性B:そーよね。でも賭けマージャンやってたんでしょう。どうしようもないわね。
女性C:私も嘘言い尽くせば良いじゃないって思ったの。でもさ、嘘で固めて、もし見つかったらもっと大変じゃない。だから、あーやって告白するしかなかったんじゃないかしら。
この会話を聞いた後、世の中のある価値観について考えさせられました。それは「嘘も方便」という価値観です。これは、嘘も時によって必要であるし、許されるものであるという意味だと思われます。仏教思想から由来している言葉です。しかし、これらの女性たちは、多くの方々が感じていた意見をそのまま正直に言ったに過ぎないでしょう。「嘘も方便」というこの世の中の価値観について考えてみます。
また、新潟県警の本部長の事件は、特定の職業における倫理基準がどのように崩壊しうるかを象徴しています。このような事件が発覚するたびに、人々は嘘の真実とその結果について再考する必要があります。また、今回の事件の後には、多くの同様の事件が続くことで、社会全体がどのように嘘を受け入れているのかということを浮き彫りにします。
嘘をついて困難に直面する可能性
嘘をつくことが習慣になると、その結果として他の悪行にもつながる可能性が高くなります。たとえば、軽い嘘の後に、それを隠すためにさらなる嘘をつくことが多くなります。これがどのように悪循環を生むのかを理解することが、我々の倫理観を再確認する上で重要です。
有名人たちが嘘や偽りで自らの名声を台無しにする事例は、メディアでしばしば取り上げられます。これにより、一般の人々は、彼らの行動を反面教師とし、自分自身の行動についても考え直すきっかけになります。私たちの周囲でも、小さな嘘が人間関係にどのように影響を与えるのかを常に意識することが大切です。
また、自分の都合によって言葉を選ぶことの危険性についても考えるべきです。それが日常的に行われると、いつの間にか嘘が習慣化し、信頼を損なう行為となりかねません。こうした思考の枠組みを変えることで、より健全な人間関係を築くことができるでしょう。

嘘も方便、世の中の価値観
また、嘘も方便という言葉には、特定の状況下での「許される嘘」が存在すると考えられます。たとえば、親が子供を守るために嘘をつく場合などです。さらに、「嘘も方便」という考え方は、時には許されることもあるかもしれません。しかし、それが人々の信頼を奪うような場合、私たちはその結果を真剣に考えなければなりません。例えば、ビジネスにおいて顧客に対して嘘をつくことは、一時的には利益を生むかもしれませんが、長期的にはブランドイメージを損なう要因となります。
嘘も方便という価値観は、私たちの社会にどのように浸透しているのでしょうか。例えば、映画やドラマでは、嘘をつくことがヒーローの行動として描かれることがありますが、それが私たちにどのような影響を与えているのかを考える必要があります。嘘を正当化する文化が形成されているのかもしれません。
嘘で崩れる信頼関係
私たちは、嘘も方便の世の中で生きていますが、一歩間違えば、嘘や偽りが人の人生そのものを狂わしてしまいます。嘘と偽りで自分の名声を自ら壊してしまった有名人たちは、数え切れません。このように、嘘は結果的には信頼を揺るがすことになるのです。
嘘の方便の名のもとに嘘偽りが言われますが、結局、自分の都合によって言葉をより分けているに過ぎません。そんなご都合主義を励行している人と、深いお友達になりたいでしょうか。自分の利益にならなければ、簡単に人を裏切っても平気な人を誰も信頼はできないのではないでしょう。
私の経験からも、嘘が習慣化すると、次第にそれを正当化するようになります。例えば、学校の成績を良く見せるために嘘をつくことが、最終的には自分自身を苦しめる結果になることを実感しました。これを克服するためには、正直に向き合う勇気が必要です。

嘘における2つの原則
次に、聖書が教える二つの原則がいかに重要であるかを考えます。これらの原則は、私たちが日常生活で直面する様々な選択において、指針となるものです。正直さを貫くだけでなく、他者との関係を築く上でも、これらの原則は極めて重要です。これはすべての人間に当てはまる原則だと思います。
この原則を実践することで、私たちは嘘を避け、より誠実な生き方をすることができます。例えば、職場において同僚に対して誠実であることが、最終的にはチーム全体の成功に繋がることを理解することが重要です。
また、聖書は私たちに価値観を再考させるだけでなく、日常生活の中でどのように嘘を避け、誠実に生きるかを示しています。具体的な例として、ある人がビジネスで成功するために他人を犠牲にすることなく、信頼を築く方法を学ぶことが挙げられます。こうした姿勢は、私たち社会全体の価値観を向上させることにもつながります。
「正直が一番」の原則
この罪深い世の中で健全に生きるには、自分の良心に従って、正直に生きるのが最善の道です。愛によって真実を語るのは、聖書が教える大切な原則です。
互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。…あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
コロサイ3章9節、12‐13節 聖書協会
本来の人間関係は、信頼関係に基づいて成り立っています。さらにこの信頼関係は、人に正直に接することによって保たれます。ところが、人間は嘘偽りによって、この基本的な人間関係の土台を破壊してしまったのです。ところが朗報があります。主イエス・キリストは、私たちの人間関係を修復してくださいました。嘘偽りなど必要ない人間関係です。
このように、嘘に対する理解を深めることは、私たちの倫理観や信頼関係を改善するだけでなく、より良い社会の形成にも寄与します。嘘を避けることや誠実に生きることは私たち一人ひとりに求められる大切な責任です。

嘘は心の悪を呼び起こす
罪人である私たち人間は、少なくとも一度は嘘をついた経験が誰にでもあるのではないでしょうか。嘘をつくと、人は罪悪感を覚えます。これは神様の摂理です。
ところが嘘をつくことに慣れてくると、罪悪感が消えてしまいます。嘘偽りをいう事が、習慣になってしまっているのです。「嘘が習慣になっていく」ーこれは私にとって正直怖い経験でした。私は10歳の頃、嘘をつくのが習慣的になっていました。なぜか理由はわかりませんが、嘘をついてしまっていたのです。それはもう中毒のように感じました。憐み深い神様は、私に気づきを与えてくださり、私は嘘を止めることが出来ました。
実際、嘘は人間の心にある悪を呼び起こすもっとも簡単な方法だと私は思います。嘘が他の悪を犯させる呼び水になるのです。この悪の連鎖反応こそ、人は留意すべきでしょう。だから日本では、「嘘はドロボーの始まり」と言われたのです。ここで一度、自分の倫理観を見直してはいかがでしょうか。
主イエス・キリストによって生きる
そのため、主イエス・キリストの教えに従うことで、私たちは自己中心的な行動から解放されることができます。信頼に基づいた人間関係を築くためには、互いに正直であることが不可欠です。キリスト教の教えは、この信頼関係を強化するための強力な基盤となります。
人を騙すことが横行されている世の中に嫌気がさしているのであれば、聖書を読んでみることをお薦めします。もしあなたが何か永遠の真実を求めているのなら、主イエス・キリストがあなたの希望をかなえてくださいます。もしあなたが生きる意味を求めているのなら、主イエス・キリストが満たしてくださいます。なぜなら、主イエス・キリストは、生きる道を教え、正しく生きるための真理を与え、何のために生きているかを知るための命の意味を教えて下さいます。
