罪の病気を発見するためにキリストの健康診断を受けましょう。必要と感じない人の中には、3つのタイプの人たちがいます。自分は幸せだと自分の生活に満足している人、自分の罪にまったく気づいていない人、自分は何も頼らずに生きていけると自信を持っている人。
健康診断と隠れた罪の病気
2025年も後10日ほどで終わりになり、新しい年を迎えます。皆さんは、どんな年を過ごしたでしょうか。心も体も健康に過ごせたでしょうか。
ある人が健康診断に行きました。血圧、心電図、血液検査、すべて異常なし。病気の自覚症状もまったくありませんでした。彼はルンルン気分で家に帰って来たのです。毎日が健康で気持ちも良かったのですが、ある日、病院から電話があり、至急、病院に来て欲しいと言われたのです。医者が次のように言ったのです。「実はあなたの血液検査の結果を詳しく見たら、肝臓にガンがあるように見えます。肝臓はよく沈黙の臓器と言われます。ガンにかかっていても、まったく自覚症状がないのです。」
今日は、私たちの健康、隠れた病気について考えてみます。病院ではないのだから、教会で健康の話なんて、なぜと思うかもしれませんが、健康は体の健康だけじゃありません。心の健康もあるのです。とは言っても、メンタルな精神病ではありません。罪が及ぼす隠れた心の病について考えてみます。

天から降りて来たイエス・キリストの目的
多くの教会では、今日、クリスマスの生誕をたたえるクリスマス礼拝をしているかと思います。私たちの教会は、毎週がクリスマスです。主イエス様の生誕とその教えに感謝して、さらにイエスの十字架と復活に驚くばかりの神様の恵みに感謝しています。だから毎週、主イエス様の生誕と十字架と復活を覚えるクリスマスなのです。しかし、今日は、改めてイエス・キリストが天から降ってきた意味、なぜ私たち人間の下に来たのかを、ごいっしょに考えてみたいと思います。
ところで、二刀流と聞けば、何を連想するでしょうか。おそらく、二刀流と聞いて、多くの方は、大リーグで活躍中の大谷選手を思い浮かべるかもしれません。しかし、元祖、二刀流は、イエス・キリストです。
父なる神とともに、天にいらしたイエス・キリストは、人と成られたのです。ヨハネ1章14節には次のように書かれています。「言葉は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちは、その栄光を見た。それは独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とイエス様の弟子たちは、イエスの教えを聞き、体験して、神の恵みと真理を知ったのです。
ですから、今、私たちは、この聖書に書かれているイエス様の教えに耳を傾け、父なる神の御心を知り、神の御心に適った生き方とは何かを学ぶことが出来るのです。これこそ、神の素晴らしい恵みです。さらにもっと詳しく、イエス・キリストが天から降りて来た目的を、いっしょに考えてみましょう。
病人を招き入れるために
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マルコ2章17節 聖書協会
病人とは誰でしょうか。丈夫な人とは誰でしょうか。健康な人とは誰でしょうか。この場合、健康な人とは、自分は健康であると思っている人です。当たり前のことですが、病気かなという自覚症状がない限り、誰もわざわざ病院には行きません。律法学者たちは、自分たちは正しい人間であると考えていました。霊的に何も悪いところなどないと考えていたのです。だから、イエス様のもとには行きません。
しかし、もっと場面をよく考えてみましょう。ユダヤ人たちは、本当に正しかったのでしょうか。いいえ、彼らは自分が正しいと思っていたに過ぎません。実は、神様の目からはすべての人が病人です。罪人です。イエス様が招いている人々は、どんな人でしょうか。実はすべての人々を招いているのです。これは罪が赦されていると約束されているクリスチャンでも変わりはありません。自分は罪が赦されている、何も変える必要もないと考えていたら、当然主イエス様の下に行って、悔い改めなど考えないでしょう。そんな人には成りたくありません。
キリストの特別なレントゲン写真
先ほどのたとえでお話しした健康自慢の男性の話ですが、今度は違った観点で考えてみます。この健康自慢の男性は、X-rayを取りました。何の異常もないと自信を持っていましたが、医者が驚いたのです。X-rayを見たら、真っ黒だったのです。
これは心の黒さを測る特別なX-rayだったのです。罪の病を見るX-rayでした。この男性は腹黒かったのです。こんなレントゲンがあったら、どれほどの人たちが真っ黒になるでしょうか。こんなレントゲンなど、誰も取りたがらないかもしれません。しかし、イエス様は、この特別なX-rayを持っていたのです。人の心の奥底まで見通してしまう力と知恵と愛を持っていました。
罪の自覚症状
キリストを必要と感じない3つのタイプの人について冒頭で書きましたが、これらの人々は皆自分の罪深さを理解していないのです。罪の自覚症状はどのような形で出てくるのでしょうか。そして罪の自覚症状が出た時に、どうすればいいのでしょうか。
罪の自覚症状は、いろいろな場面で出てきます。それを自分で気づくかどうかは、自分次第ですが、我々人間は、他の人が見ているという意識が働くと、人に見てもらいたくて、自分をよりよく見せたがるものです。
だから、主イエス様は、人に褒められくて、良い行いをしてはならないと言ったのです。今の時代は、インターネットが発達して、自己宣伝が簡単にできてしまいます。動機が何であろうと、自己PR をやって当たり前、やらなきゃ損という感じでしょうか。承認欲求が、つい強まってしまう時代に生きています。自分の動機は、度外視して、自己PRしてしまいがちになります。自分の見栄のために、その場を繕うのも、人間が行う常套手段です。
外面を良く見せる
ある人が、弁護士事務所をはじめて開きました。すべてが真新しいのです。ドアに初めてのお客が入ってきました。その弁護士は、忙しそうにしなければいけないと思いつき、突然、電話機の受話器をとり、話し始めました。次のように、電話で話しているふりをしていったのです。「鈴木さん、その件は3000万円では安すぎます。その件について詳しく知っている私の知り合いが、大阪から来るので、その時また話し合いましょう。その時、また私から電話をします」と電話を切りました。電話を切った後、弁護士は、その初めてのお客を見て、「おはようございます。どのようなご用件でしょうか。」と言いました。
そうすると、この初めてのお客は、「弁護の依頼で来たのではないんです。私はただ電話線をつなぎに来ただけなんですが、、、、。」と言ったという話です。
このようなセコイ、稚拙なことを、人間はいとも簡単にやってしまうのです。他人がそれをやっていると、それ見たことかと、人を批判するのが、人間の罪の重さの現れです。これが優越感の現れです。
優越感 人を見下す
優越感が強い人ほど、劣等感も同等に強いという心理学者の学説を読んだことがあります。強い劣等感の裏返しが、自分は正しいと思いたい、他の人より優れていると証明したという優越感につながると言うのです。
私は、20代の頃、劣等感に悩んでいました。その劣等感に何とか打ち勝とうと、自分の正しさを証明しようとし始めたのです。私は、友達と話をしても、いつも議論ばかり、そして相手を論破するのが私の趣味になっていたのです。親からも、よく言われました。「お前は理屈っぽい」と。理論を戦わせ、人の間違いを探すのが趣味の様な人間になっていたのです。だから、イエス様の言葉が私の心に刺さったのです。
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。マタイ7章1‐5節 聖書協会
人の話しぶり、態度、仕草、性格など、批判して何になるのでしょうか。私は人のためを思って、善意で他の人の間違いを指摘しているつもりでいたのです。実際、私は、善意の名のもとに、どれほど人を裁いていたのでしょうか。愚かな心であり、態度であり、行いです。
それでいて、自分の間違いにまるっきり気づいていなかったのです。まさに、偽善です。こんな人間にはなりたくない、と心から思いました。主イエス様にお願いしたのです。この時から、私の悔い改めの人生が始まりました。
重荷を背負う私たち人間
他の人を見下す優越感を持っている人、または他の人より劣っているという劣等感でいっぱいの人、または何とか自分を引き上げようと日々、努力している人、毎日受験勉強で頑張っている学生、社会のいろいろなプレッシャーのストレスに負けて怒りを爆発して、犯罪まで犯してしまう人、あるいは、現実逃避してお酒におぼれる人、家から一歩も出られないで引きこもっている人、もうダメだと人生に諦め自殺願望を持っている人、みんなそれぞれ、その行動の仕方は違いますが、重荷を負って疲れているのです。
これらの内、私たちはどこかで同じような経験をしたはずです。実は今でも、その根っこは、私たちの心の中にあるのです。だから、主イエス様は、すべての人を、愛をもって招いているのです。キリストがなさる人生再生に不可能はありません。どんな人でも新しい人生が始められます。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタイ11章28-30節 聖書協会
主イエス様は、私たちに休みと安らぎを与えると約束しておられます。しかしここには条件があります。主イエス様のくびきを負い、主に学ぶことです。これなしには、クリスチャン生活は、空回りするだけです。いくら教会の礼拝に出席しても、主イエス様と共に歩み、学び続けなければ、クリスチャン生活は満たされません。
主イエス様の招きに応えましょう
日々、主イエス様の名によって祈り、「主よ、あなたは私の人生の先生です。唯一の神様です。どうか私に教えてください。どうかあなたの御心が私の生活で今日行われますように。」と短くてもいいので祈ってみましょう。
この主イエス様を求める信仰から、新しい人生の一歩が始まります。ある男性が2026年、新しい人生を始められますようにと祈りました。すると、主イエス様は「2026年までまた10日間位あるが、それまでどんなふうに過ごすつもりか」と聞きました。すると、彼は「この10日間は、私の最後の休みです。好きなことをやって過ごすつもりです。2026年元旦からあなたに従います。」と言いました。主イエスは言ったのです。「私には年の始めも終わりもない。毎日がお前にとって新しい日、として与えているんだ。それを無駄にするつもりか」と戒めました。 もし私たちが悔い改めて、主イエス様に学び始めるとしたら、今日が始まりです。今日から、主イエス様について行きましょう。

神様を第一に愛する者となれますように。アーメンです。いっしょに成長しましょう、
クリスマスおめでとうございます。
昨夕のイヴ礼拝での説教でイエスさまがお産まれになって寝かせられた飼い葉桶は、木ではなく、石であったということが学べました!! 布にくるまれていたとはいえ、冷たかっただろうなと思わされました。
21日の説教を再度文字で読み返すことが出来たことを感謝します。
神様を第一に愛する者となれますように。
ごめんね ありがとう イエスさま❣️🤍❣️🤍❣️
きっとほとんどの人が、どこかで遠回りするのではないかと思います。Oouraさんも僕も、同じ道をたどってきたので、より感謝の気持ちがわいてきます。お知り合いになれて感謝します。
メリークリスマス🎄主のお誕生を喜びお祝い申し上げます。
主イエス様は、私たちに休みと安らぎを与えると約束しておられます。しかしここには条件があります。主イエス様のくびきを負い、主に学ぶことです。これなしには、クリスチャン生活は、空回りするだけです。いくら教会の礼拝に出席しても、主イエス様と共に歩み、学び続けなければ、クリスチャン生活は満たされません。
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8年前にイエス・キリストの十字架の贖いを信じてしばらくというか、去年くらいまで救われたはずなのに満たされない生活を送ってました。
ろくに祈らず、主に学ぶこともしていなかったと思います。
今年になって真剣に祈るようになり、みことばも実践しようと努めるようになって、平安と希望が与えられてます。
日々、感謝し、赦し、愛するの繰り返しですね。
主に感謝です🌿