イスラエルと結ばれた新しい契約は、私たちの信仰と教会の理解に深い影響を与えています。この新しい契約がどのように形成され、それが教会における役割や特徴にどのように反映されるのかを探ることは、信者にとって重要なテーマです。本記事では、イスラエルの救いに関連する新しい契約の意義と、教会の3つの特徴について詳しく考察します。これにより、私たちの信仰の基盤を強化し、教会の使命を再確認する手助けとなることでしょう。また、イスラエルの救いを理解することが、私たちの信仰においていかに重要であるかを強調する必要があります。
イスラエルと教会とは別物か
ディスペンセーションの教理によれば、イスラエルの救いは、クリスチャンの救い(教会における救い)とは、まったく別物と考えれられています。この教理は、現在のキリスト教に多く広がっています。イスラエルは、主イエス様と共にこの地で1000年間支配するのです。これがイスラエルの救いです。ザックリいえば、終末の時期に次のような順序で起きると考えられています。
- 携挙:クリスチャンは空中で主イエス・キリストと出会い、天の召されます。その後、患難がこの地上を襲い掛かります。
- 患難が終わらせる主キリストの再臨が起きます。
- キリストの再臨の後、主イエス・キリストは、エルサレムにすべてのイスラエルを集め王国をこの地で支配するのです。サタンである悪魔は、1000年間拘束されます。
- 最後の審判が下され、サタンとすべでの悪が火の海に投げ込まれます。
イスラエルの救いは教会にいるクリスチャンの救いとは、別個に行われるという教理は、神様の真理でしょうか。御心でしょうか。この教理はローマの手紙9~11章の解釈に基づいていますが、この解釈はローマの手紙全体の文脈と歴史的文化的背景を考慮せずに読んでいるために生まれていると管理人は思います。新しい契約において、すべての民族は分け隔てなく、主イエス・キリストによって招かれている前提条件に基づき、新しい契約の次の3つの視点について考えてみます。
1.新しい契約:異邦人を含めたイスラエル
1世紀の教会は、どのように始まったのでしょうか。使徒2章を読めば、その概要を理解できます。五旬節の日に、ローマ帝国内にいたユダヤ人およびイスラエルの人々が集まってきてました。その時、聖霊なる神様が使徒たちの上にくだり、突然彼らは異国語で話し始めたのです。周りの人たちは、彼らが酔っぱらっているかと思ったのですが、ペテロは彼らが聖霊の力によって外国語で話していることを明言したのです。そして、ヨエル2章38-32節を引用して、老若男女、何の区別なく信じる人たちには神の霊が与えられることを証明して見せたのです。これを聞いたユダヤ人たちは、心打たれ悔い改めます。その時の様子が、使徒2章36-39節に記録されています。
だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」使徒2章36-39節 聖書協会

この新しい契約は、イスラエルの人々と結ばれたのです。これが教会の始まりです。1世紀の教会は、ユダヤ人クリスチャンによって始められ、神はイスラエルの民と新しい契約を結んだのです。これらのユダヤ人たちは、罪の赦しと聖霊が与えられるという神の約束を信じ、悔い改めバプテスマにあずかりました。イスラエルの救いは、キリストが建てた教会から始まったのです。教会とは別に成就されるとは約束されていません。
しかしこの時点で、使徒たちは異邦人に宣教するなど夢にも思っていなかったのです。神の救いの計画は、イスラエルの人々だけに与えられていると信じていたからです。後になって異邦人も神の救いにあずかることができると啓示されるのです。一番手の異邦人クリスチャンはコルネリオでした。彼とその家族は、ペテロの福音メッセージを聞いて、聖霊なる神様の祝福を受けて、主イエス様の名によってバプテスマを受けたのです。
このように原始教会は、イスラエル人も異邦人も含め、民族の壁、文化の壁などすべてが取り除かれた、主イエス様にあって一つの民である教会でした。ユダヤ人もギリシャ人もなく、身分の上下関係もなく、男女の差もなく、すべて信じる者が、主イエス様の名によって神の子供とされたのです。

新しい契約の第一の特徴は、「新しい契約のイスラエルは異邦人も含めた民」であるということです。残りの2つの特徴は、上記の聖句ですでに明らかになっていますが、すべてのクリスチャンが受ける聖霊と罪の赦しです。イスラエルの救いと異邦人の救いに違いはありません。
2.各クリスチャンに与えられる聖霊の力
事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、主は言われる。『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、わたしも彼らを顧みなかった』と、主は言われる。『それらの日の後、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはそれぞれ自分の同胞に、それぞれ自分の兄弟に、「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり、わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。へブル8章8-13節 聖書協会
主イエス様が再臨された後、神様はイスラエルとユダの民と新しい契約を結びました。その結果、キリストが建てる教会はイスラエルの民であるユダヤ人たちで始まったのです。へブルの手紙8章もこの事実を説明しています。
聖霊なる神様が、神様の律法として各クリスチャンの心に宿り、主イエス様を通して父なる神様を知ることが出来るのです。旧い契約の時代のように、預言者が「主を知りなさい」と呼び掛ける必要はありません。聖霊なる神様は、一人一人に油注ぎの恵みを与えてくださっているのです。
以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。1ヨハネ2章26-27節 聖書協会
一人一人のクリスチャンは、大祭司主イエス様を通して父なる神様と関係を持っています。一人一人のクリスチャンは、祭司として清められているのです。教師の役割は、神の御言葉を解き明かすことだと思います。ジグソーパズルをピースを一つ一つはめていくようなイメージです。無理やり入れると、歪な形になってしまいます。だからこそ、各クリスチャンは、人を惑わる偽教師に警戒する必要があるのです。
3.罪が赦される
新しい契約の最後の特徴は、罪の赦しです。旧い契約においても、いけにえを捧げることにより罪は赦されていました。しかしその赦しは一時的なものでした。
なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。へブル9章24-28節 聖書協会
旧い契約のいけにえの儀式は、主イエス様の本物のいけにえの模倣に過ぎなかったのです。主イエス様は、天から降りてきて自らの体を全人類の罪のいけにえとして、たった一度だけささげました。クリスチャンの罪の赦しは、一時的なものではなく永遠なのです。

へブル書は、1世紀のユダヤ人クリスチャンに書かれてたものと思われます。彼らの救いは、現実に神の御心によって成就していたのです。終末の1000年の王国で起こるものではありません。今も主なるイエス様は、イスラエルの人々に悔い改めるように求めています。この意味で、天の神様はイスラエルを見捨てているわけではないのです。いつも憐れみをもって、彼らを悔い改めへと呼び掛けているのです。以上、イスラエルの救いと新しい契約の特徴について説明しました。
