コンテンツへスキップ 投稿日:2022年5月31日/更新日:2025年12月30日
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キリストを着る狭き門-唯一の道

信仰と祈り

季節に合わせて服装を合わせるのは、寒暖が激しい時は難しいかもしれません。しかし、いつでもどこでも身に着けていいものがあります。それはイエス・キリストです。全天候型に適応し、心を癒してくださいます。御茶の水キリストの教会の伝道者である野口良哉さんの寄稿です。「キリストを着る」という概念を、衣替えの季節に合わせてわかりやすく解説しています。

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

さて六月です。いわゆる「衣替え」の季節を迎えました。私たちはこの時期、今まで来ていました冬物や春物の長袖を仕舞い、新しく半袖などの夏物を出してきて着るようになります。同じように、私たちは、時に、霊的・精神的に、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着ることが期待されているのではないでしょうか?

新約聖書のコロサイ人への手紙3章9~10節にはこうあります。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」また、ローマ人への手紙13章14節には「主イエス・キリストを着なさい。」ともあります。

衣替え

新しい人を着る、キリストを着る意味

「新しい人を着る」とか、「キリストを着る」というのは、一体、どういうことなのではないでしょうか?・・・語弊を恐れないで言えば、それはある意味、洋服などの外観・外面を変えるということではなく、むしろ、その内実・心をこそ変えるということなのではないかと思います。

最初に掲げました聖句で、使徒パウロは「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」と言っています。これは言うなれば、衣替えではなく、<心替え>なのではないでしょうか?

キリスト教の世界では、心を入れ替えたり、悔い改めたりすることを「回心」と言いますが、それはまさに「心を回す」と書きます。同じ心で居続けるのではなく、心を回す、心を入れ替える、心の転換が必要であるということではないでしょうか?

 いわゆる天動説から地動説への大転換を「コペルニクス的転回」と言いますが、ある意味、私たちはそれぐらいの心の大転換が求められているのです。すなわち、自分中心の天動説的な生き方から神中心の地動説的な生き方への大転換です。<信仰のコペルニクス的転回>とでも言えましょう。

 ある人は言いました。「他人と環境は変えられないが、自分とその心は変えられる」。神にあって、キリストにあって、その心を大いに変えていただきましょう!

狭き門

キリストを着る狭き門

狭き門—大勢に流されない生き方。私たち日本人は、ともすると「右へ倣え」、「長い物には巻かれろ」と、大勢に流されやすい傾向があると指摘される。“赤信号、みんなで渡ればこわくない”というのは、その典型ではないだろうか?

一方で、主イエスは「狭い門から入りなさい」と言われている。私たちは、時に、自己批判をしつつ、それぞれのケースにおいて、みこころならば、主の望む狭い門をくぐり、狭い道をこそ進みたいものである。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」     (マタイによる福音書7章13~14節)

先日、亡くなられた茶道裏千家の家元だった千玄室さんは、「特攻の生き残り」としての忸怩たる思いを持ちつつ、茶道を通して平和を訴え続けたそうです。学徒出陣の際には、父親から茶道千家の始祖・千利休が無念のうちに切腹した際に使ったとされる名刀を見せられ、命を大切にせよとの無言のメッセージを受け取ったとも言います。

そんな千玄室さんは、その著書の中で、茶室の「躙り口」に触れ、次のように述べています。茶席では、武士や平民の区別なく、みな平等。茶室の入り口が「躙り口」と呼ばれ、狭く低いのは、武将に刀を外させるためだと。そして、千利休がそれを思い付いたのは、冒頭にお読みしたみことば「狭い門からはいりなさい」の一節からだという説があるというのです。・・・そんなところに、千玄室さんは、茶道と平和の関係を見たのかもしれません。

キリストを着る狭き門

と同時に、私(筆者)は思います。戦争中、多くの人々はある意味、「右へ倣え」、「長い物には巻かれろ」と、無批判に大勢に流されてしまったのではないでしょうか?つまり、広い門から入り、広い道を行ってしまったのです。私もそうしたかもしれません。

しかしながら、主イエスは、言われます。「狭い門から入りなさい」と。私たちは、時に、自己批判しつつ、それぞれのケースで、みこころならば、主の望む狭い門をくぐり、狭い道を進みたいものです。そこにこそ、主は同伴して下さるからです!

ところで、私の尊敬するキリスト者の一人、杉原千畝元外交官は、戦争前夜、リトアニア駐在中に、ナチス・ドイツから逃れて日本行きのビザを求めて来たユダヤ人たちに対して、なんと日本政府の命令に逆らって独断でビザを発給し、約六千人を救いました。この行為は、当時はまさに命懸けで、それはまさに大勢に流されない生き方そのものでした。時に、キリスト者はそのように、「狭い門」をくぐることが求められているのではないでしょうか?

最後までお読み下さった皆様、お一人お一人に、主なる神の祝福と平安が豊かにありますように!

御茶の水キリストの教会

野口 良哉

御茶の水キリストの教会   野口 良哉

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