476年から1000年までを、キリスト教の社会の発展として考えてみます。一般の西洋史で中世は、600年頃から1500年頃までですが、キリスト教の歴史の観点から中世を3つに区分します。最初の区分は、ローマ帝国の西側の滅亡476年から1000年です。ローマ帝国の西側が滅亡後、ローマ教会は帝国の西側の政治的権威をそのまま受け継ごうとします。この意味で、西側が滅亡した476年は一つの区切りとして重要です。
東ローマ帝国=ビザンツ帝国
西ローマ帝国は、ゲルマン民族によって侵略され476年に滅亡しましたが、東ローマ帝国はゲルマン民族の侵略を受けませんでした。その後、ユスティニアヌス皇帝(527-565年)がイタリアと北アフリカの一部の領土を奪還しましたが数年後には失ってしまいます。東ローマ帝国(別名ビザンツ帝国)は1453年まで存続しますが、国力は外国の攻撃によって急激に衰えていきます。600年代にササン朝ペルシャ帝国によって侵略され、650年以降には継続的にイスラム民族によって攻撃されます。結果的に、1453年に首都コンスタンティノープルが陥落したのです。(イスラム教の教祖、モハメッドは570年頃~610年頃)
このような東西分裂の歴史の流れで、キリスト教の世界においても大きな変化が起きました。東の教会は、1054年にローマ・カトリック教会と決別してギリシャ正教会となったのです。

476年以降のフランク王国の建設
西ローマ帝国が滅びて後、ゲルマン民族の大移動が加速されます。ゲルマン民族の一部族であるフランク族が、ローマ陥落の5年後にフランク王国を建設しました。
- クロヴィス1世 481-511年 メロヴィング朝 初代の皇帝
- キルデルク3世 743-751年 メロヴィング朝 最後の皇帝
- ピピン3世 751-768年 カロリング朝 初代の皇帝
- カール1世 768-814年 カロリング朝 第2代皇帝
カール1世は、ヨーロッパ全体の勢力を広げたために「カール大帝」というタイトルを受け、また「ヨーロッパの父」、「最初のヨーロッパ人」と呼ばれるようになりました。

フランク帝国と教会の相互依存的な関係
800年のクリスマスに、帝国とローマ・カトリック教会の関係を象徴するような事が起きます。カール大帝は、ローマ教皇レオ3世によりフランク帝国の皇帝として戴冠(タイカン)されたのです。これはキリスト教の権威、教会の権威の観点から非常に重要な意味合いを持ちます。
第一に、カール大帝の王国が東ローマ帝国から完全に自立した存在であること、独自の帝国であることを、神が内外に認めたことを象徴していたのです。第二に、これによってカール大帝は、名実ともに神の権威によって皇帝になったことを内外に示すことができたのです。第三に、神に与えられた教会の権威がを当時の人々に印象付けたに違いありません。この他にも、フランク帝国と教会の相互依存の関係を示す出来事が起きています。
- 教会は、750年代にイタリアのランゴバルト王権と敵対関係にあった。この時、教会はフランク王国に助けを求めた。フランク帝国のピピン3世は、イタリヤに遠征をしてランゴバルト王権を撃退した。この結果、フランク帝国は教会に借りを作った。
- 政敵に襲われてローマから落ちのびて来たレオ3世教皇を、フランク帝国のカール大帝に助けた。
- 教会の勢力は、ローマ・カトリック教会とギリシャ正教会に二分しており、フランク帝国はローマ教会を支持した。
- 一方、フランク帝国は、キリスト教布教を「帝国を支配する、束ねるための手段」として使った。
- カール大帝の時代は、カロリング・ルネッサンスとも呼ばれる。フランク帝国は、この時代に数々の戦争に打ち勝ち飛躍的に領土を拡大していった。これも教会の後ろ盾があったからだろうと思われる。
後にフランク王国は衰退して後継である分裂国家が建てられ、中世ヨーロッパの基礎が創られました。さらに850年ー1050年まで第二次民族大移動(マジャール人、ヴァイキング人、ノルマン民族)が起きました。この時代の流れの中で、神聖ローマ帝国(962年ー1806年)が建設されたのです。主な皇帝の名前です。
- オットー1世(初代) 962-973年
- カール4世(第16代) 1355-1378年
- フリードリヒ3世(第18代)1452ー1493年
- カール5世(第20代)1519-1530年
- フランツ2世(最後の皇帝)1792-1806念

神の選びと導きの神学
一方、教会の教理にはどのような変化が起きていたのでしょうか。4世紀初めに始まった「キリストの人格と神格および三位一体の神」に関する論争は、教会会議の決定によって幕を閉じましたが、5世紀の初頭に新しい論争が引き起こされました。この論争の焦点は、人間がどのように神を信じることができるのかにありました。
ぺラギウスは、人の性善説を唱え、人は自由意志によって善を選ぶことができると説いたのです。結果的に、「人は生まれながら罪人として生まれる」原罪の教理を覆し、間接的に、幼児洗礼の正当性も否定しまったのです。ペラギウス派の教理は、ローマ・カトリック教会の教理として確立されていた「原罪と神の摂理」を100%否定したために、431年に開かれたエペソの教会会議においてペラギウス派は完全に断罪され排斥されたのです。
ペラギウスの主張に対して、真っ向から対決したのはヒッポ教会の司教、唯一無二のアウグスティーヌス(354-430年)でした。彼は中世のキリスト教神学に多大な影響を及ぼしました。
ちなみに、人の自由意志と神の摂理に関する論争は、16世紀、2人の宗教改革者(カルヴァンとアルミニウス)の間で再度勃発するのです。このテーマが未だにプロテスタントの諸教会を分断しているのは、非常に興味深いところです。
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