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コンテンツへスキップ 投稿日:2025年7月11日/更新日:2025年10月22日

ローマ帝国とキリスト教が融合、312-476年

ローマ帝国とキリスト教

ヨーロッパのキリスト教の歴史にはいくつかの転換期がありますが、312年がその一つです。「ローマ帝国とキリスト教が融合」の起点の出来事が起こります。それは、ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌスが、キリスト教に改宗したことです。この事がきっかけで、キリスト教に政治的要素が入り込み、教会内に明らかな権力闘争が起こり、教会が徐々に世俗化されていきました。

4世紀は、クリスチャンと教会にとって激動の世紀になりました。1世紀にはユダヤ人たちが教会を迫害しましたが、3世紀の終わりから4世紀初めには、かつてないほどの激しい迫害がクリスチャンに対して起こりました。ローマ帝国のこの迫害は、比べ物にならないほど激しかったのです。ところがコンスタンティヌス帝の改宗によって、一転してローマ帝国はキリスト教の強力なサポーターになったのです。

支配者たちは、キリスト教を通して帝国を統治しやすくなり、逆にキリスト教は帝国の権威の基に発展していったのです。この時から帝国とキリスト教の相互依存の関係が成立したのです。中世に入るとこの相互関係は、罪深い関係へと発展してきました。

ローマ帝国とキリスト教の融合

コンスタンティヌス帝の改宗

コンスタンティヌス帝の改宗は、どのように起きたのでしょうか。何がきっかけで彼はキリスト教へ改宗したのでしょうか。

ディオクレティアヌス帝は、帝国の権力と政治を東西に分けていたために、彼の死後、必然的に内戦が勃発しました。帝国の西側を支配していたコンスタンティヌスは、自称、皇帝としてローマにいたマクセンティウスを攻め、ミルウィヌス橋の戦いで312年に完膚なきまでにこのライバルを打ち負かしたのです。

コンスタンティアヌスは、この勝利をどのように解釈したのでしょうか。彼はこの戦争のために、キリスト教の神に祈っていたのです。この祈りに神が、応えてくださり勝利を与えてくださったと解釈したのです。この結果、コンスタンティヌスはキリスト教教徒になったのですが、キリストを信じる純粋な信仰は持ち合わせていませんでした。彼は改宗はしていても、異教の宗教の信仰を持ち続けていたのです。

コンスタンティヌスは、主イエス・キリストの父なる神と太陽の神と混同していました。キリスト教に改宗した後でさえ、彼はローマの神々を祭る宗教職である最高神祇官として神々の礼拝を執り成していました。このようなプロセスの中で、教会は異教の宗教の習慣を数多く取り入れました。その一つがキリストの生誕日として受け入れられている12月25日です。本来12月25日は太陽の神の誕生日でしたが、キリスト教がローマ帝国の公の宗教になり、異教徒たちを取り入れるためにキリスト教が12月25日をキリストの生誕日として受け入れたのです。

ローマ帝国とキリスト教が融合

教会の公会議

2世紀から4世紀初頭にかけて、いくつかの異端的な教えが広がっていました。たとえば、物質と霊に分ける二元論が、いくつかの異端の共通した教理としてありました。天地万物を創造された神は軽んじられ、旧約聖書には権威がないと考えられていました。

また、逆にユダヤ教に傾倒したクリスチャンたちは、モーセの律法を人類に共通する教えと唱えました。同時に、彼らはイエス・キリストは人に過ぎなかったが、聖霊が降りてきてメシヤになったと主張していたのです。

上記のような異端の他に、イエス・キリストの人間性と神格、三位一体の神の関係、人間の自由意志に関して様々な異端的教理が唱えられていたのです。

このような状況の中で、キリスト教が帝国内で公に認められたのです。(コンスタンティヌスが改宗した後でも、後の皇帝がローマの伝統的な宗教を復活させようとしましたが、5世紀にはキリスト教は、完全にローマ帝国の公の宗教になっていきました。)教会はキリスト教の公式の教理を内外に示す必要に迫られ、教会の公会議が開かれました。聖書の正典についても、公会議で正式に定められました。

ニカイア会議(325年)、エペソ会議(431年)

ニカイア会議は、コンスタンティヌス皇帝によって招集され開催されました。本来ならば、国家が教会の会議を招集する権威を持っていませんが、中世の教会の国家の歪な権力闘争の関係が、この時から始まったといっても過言ではないでしょう。

この会議では、アレキサンドリヤ教会の司祭アリウスによって主張された教理(神の御子、イエス・キリストは最初の被造物であり偉大な存在であるが、父なる神と同格でない存在であった)が、果たして聖書的に正しい教えなのかが議論されました。その結果、アリウスは異端として断罪されたのです。

しかし、2年後にはこの決定は簡単に覆され、アリウス派が教会に復興してしまったために新たな論争が引き起りました。そのために教会は、381年に二回目の教会会議をコンスタティンノープルで開き、ニカイア会議の決定を受け継ぎ、アリウス派を改めて断罪し完全にこの教理を教会から排斥しました。この時代に、三位一体の神学の根本的な考え方が確立されたと思われます。

5世紀には新たな教理が生まれます。イエス・キリストは父なる神と完全に一体であると定めたニカイア会議とは異なる教理が、コンスタンティノープルの司教ネストリゥスによって唱えられました。イエス・キリストの人間性を神格とまったく分離して考えたのです。つまり、人間イエスにロゴスが宿り、キリストになったと説いたのです。しかしこの教理も異端として断罪されました。

ローマ帝国とキリスト教

ローマ帝国の西側が滅亡(476年)

395年にはローマ帝国は完全に2分割されていました。帝国の東側は、ササン朝ペルシャ帝国によって継続的に攻撃をうけていました。そのため帝国は東側を防御していましたが、その間にゲルマン民族が西側を攻撃をしかけてきて、476年に完全にローマ帝国の西側(西ローマ帝国とも呼ばれます)が陥落しました。

帝国の西側が滅亡したことは、教会にはあまり関係ないことに思えますが、私は教会の歴史を辿るうえで非常に大きな要素だったと考えています。なぜなら、476年前以降、帝国の支配が去った後、ローマ教会がこの地域においてより大きな影響力を持つようになったからです。

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