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新しい契約-キリストのミッションインポッシブル

キリストのミッションインポッシブル

主イエス・キリストは、人類の救いのために、ミッションインポッシブルを託されました。旧約聖書の律法を成就したキリストの福音は、律法とどのような関係にあるのでしょうか。旧約聖書は、神のみことばとして権威をもっていますが、クリスチャンは旧約聖書の律法をどのように捉えるべきでしょうか。この記事ではこの疑問に答えます。

人生の分岐点 

2026年早くも第二週目の日曜日です。新しい年には、何か自分を変えようと考えている方もいるかもしれません。確かに、人生には、自分を変えなければいけない時がありますが、まったく変えようとしない人もいます。

ある2人のボートに乗っていて遭難しました。周りには果てしない海が見えるだけです。一人が怖くなって神様に祈り始めました。「私はあなたの教えに背いて来ました。人を裁き傷つけたり、嘘をついて人をだまし、酒を飲んで酔っ払い、喧嘩もしました。神様、私はもう二度と人を裁いたり、お酒を飲んで酔ったりしません。」と言い、さらに「そしてもう二度と嘘などつかないと約束します」と言おうとしたとき、もう一人の人が言いました。「もうそこまでにしておけ。大きな船がこっちに近づいてくる」のが見える。結局、一度、人生を変えようと思ったこの男性は、変えないで終わってしまったのです。

変えようと思ってなかなか変えられないのが人生ですが、主イエス様の力を借りれば、人生は再生可能です。新しい人生の出発があります。それがクリスチャンの人生です。神様によって与えられる恵みと希望と喜びの生き方です。神様の祝福が目の前にあります。

確かに人生には、変化する分岐点があります。この記事では、人生の分岐点と同時に、世界の歴史上の分岐点について考えてみます。

キリストが来た目的

去年のクリスマス礼拝の時に、キリストが来た目的について話しました。キリストは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たと話しました。しかしキリストには、もう一つ大切なミッションがありました。世界数十各国の歴史から見たら、キリストのミッションは 2000年前のイスラエルで起きたに過ぎない他人事に思えるでしょう。しかし人類の歴史の観点から見れば、これは世界の歴史の転換点でした。人の人生が根底から変えられる転換点であり、分岐点でした。今日は、キリストが来た目的をもう少し深く掘り下げてみます。

律法とイエス・キリストの福音

律法とキリストの福音は、どのような関係にあるのでしょうか。

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」マタイ5章17-20節 聖書協会

主キリストは、律法を廃止するために来たのではなく、完成するために来たと言っています。完成は、成就とも翻訳されますが、どちらの意味も含んでいると思われます。

さらにその律法の言葉は、天地が消えうせるまで、消え去ることはないのです。このように考えると、旧約聖書の律法は、私たちにどんな意味があるのかを考える必要があります。

さらに主イエスは付け加えます。私たちの義がパリサイ人の義にまさっていなければ、天の御国に入ることは出来ないのです。まず最初に律法が完成した意味を考えてみましょう。

律法が成就した意味 その1

もっとも明白な律法の成就は、イエス・キリストが人間の罪のために罪のいけにえとして、十字架にかけられ死んだときに成されました。

このような理由で、私たちは罪のための動物のいけにえを捧げないのです。主イエス・キリストが、たった一度だけ、人類のすべての人間の罪のいけにえとして死んだのです。ですから、この方を信じて生きる人は、罪が赦されているのです。

私たちは、日々の礼拝で主イエス様を覚え、また週一回の教会での礼拝では、キリストの信仰共同体として、主イエス様の十字架の死と復活を宣言するのです。特に主の晩餐は、その象徴です。私たちは、主イエス様が今も生きていると信じています。生けるパンとしていただきます。そして、主イエス様の十字架の死に感謝して、杯に与るのです。このように、主イエス様が律法を成就してくださったおかげで、私たちは創造主なる神様を礼拝できるのです。では、主イエス様が律法を成就した2番目の意味を考えてみます。

律法が成就した意味 その2

主イエス様は十字架の死の他に、律法をもう一つの方法で成就されました。この成就は、イエス様の十字架の死と同じくらい重要です。

旧約聖書の律法の中で、もっとも重要な戒めは、主イエス様が言うように2つあります。第一に、主なる神様を心を尽くし愛すことです。第二に、隣人を自分のように愛すことです。

この2つの律法は、すべての律法に関係しています。生活のすべてを包括的に戒めています。旧い契約の時代には、誰もこの2つの律法を守ることは出来ませんでした。なぜなら、モーセであろうが、ダビデあろうが、どんな預言者であっても、皆、罪人であったからです。

しかし主イエス様は、この2つの律法に完全に従ったのです。律法を成就させたのです。

キリストが律法を完全に守った 成就した

旧い契約では、この2つの律法の付随事項として、神様をどのように礼拝するのか、また人間関係に関する細かい律法がありました。なぜならば、神様がこれらの細かい律法を通して、彼らの生活を守り祝福しようとしていたからです。

しかし新しい契約では、そのような細かい律法はありません。ではどのようにして、神様を愛することと隣人愛を実践できるのでしょうか。愛の基準はどこにあるのでしょうか。

主イエス様は、神を愛する意味を私たちに教えています。身をもって神を愛することを実践したのです。また隣人愛の意味も私たちに示してくださいました。

どのように私たちは、主なる神を愛すのでしょうか。隣人を自分のように愛すのでしょうか。これをしなさいとか、あれをしなさいとか、細かい律法は与えられていません。献金はいくらすればいいのでしょうか。そんなことは教えられていません。収入の10分の1の献金をしなさいと教える教会がありますが、そのような規則は、新しい契約にはないのです。なぜでしょうか。基準は主イエス様にあるからです。個々のクリスチャンが、祈って決めるのです。

主イエス・キリストが律法

旧約聖書で示された律法の原則は、主イエス様が成就してそのまま受け継げられているのです。ただし、新しい契約に生きるクリスチャンの律法は、主イエス・キリストご自身です。

キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために。ローマ10章4節 聖書協会

この聖句は、キリストは律法の最終地点とも翻訳されてもよいのです。つまり旧約聖書示されたすべての律法が、主キリストの律法にとって代わったのです。主イエス・キリストが律法の基準なのです。

だから、主イエス様は、「あなたがたは私が愛したように、お互いに愛しなさい」、と戒めているのです。このように愛の基準、行動の基準が、主イエス様にあるのです。

パリサイ人の義をまさる義

パリサイ人たちは、律法のうわべだけ、見える所だけに従っていました。自分たちの正しさを誇っていました。彼らは神様の御前でいつも正しいと考えていたのです。彼らに間違えはなかったのです。確かに、彼らは人のために尽くし、善い行いをしました。自分がどれ程良い人間か、正しいのかを、自己宣伝することを忘れませんでした。

自分の正しさゆえに、他の人を平気で、裁くことも出来たのです。他人に対して、「あれが悪い、これが悪い」と何の躊躇なく批判できたのです。

ある人は、パリサイ人たちのように自分の正しさを誇るために、霊的な漆を塗ってしまう。パリサイ人と同じ偽善を実践しているようなものです。見える所を綺麗にして、周りから良いクリスチャンだと思われています。しかし誰も見られていない時、またプライベートな時に本性が現れます。時間が経ってくると、その人の漆が剥げてきます。周りの人たちも、徐々に、その人の正体を知るようになります。

主イエス様の弟子であるクリスチャンは、そんな漆など塗る必要はありません。人が見ていても、見ていなくても、同じ行動がとれます。主イエス様の教えが、心に刻まれている人は、他人をむやみに批判、批評したりしません。むしろ心の貧しい人になり、神様の義を求めるのではないでしょうか。

主イエス・キリストが人生の師、人生の律法

私たちの人生の師、先生は、主イエス・キリストだけです。この方の教えに正しさがあります。正義があります。私たちに正しさはないのです。自分の考えていることが正しいと思った瞬間、私たちは悪魔が用意している落とし穴に入っていきます。

今週も、主イエス様に心から祈り、告白しましょう。「私はあなたの弟子です。あなたに従います」と。

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