//Google Tag
コンテンツへスキップ 投稿日:2025年8月15日/更新日:2025年10月22日

祈りを教えるイエスの弟子訓練-ルカ11章1節

神の正義

イエス最後の旅、十字架の都、エルサレムに向かう途上で弟子訓練が続きます。その道で弟子たちがイエスに祈ることを教えてくださいと願います。説教の仕方、手紙の書き方、または語り方を教えることのないイエスです。しかし、祈りは教えます。祈りについてでなく、イエスご自身が祈り、見せます。それがイエスの教えです。

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」(ルカ11章1-4節) 聖書協会

弟子訓練

イエス最後の旅が弟子訓練で進みます。律法の専門家との対話であわれみ深いサマリヤ人の物語を語り、「あなたも行って同じようにしなさい」のみことばがありました。専門家だけでなく、物語をいっしょに辿った弟子たちへの招きでもあります。物語に出会った私たちへの招きです。あなたの物語として、主イエス・キリストに永遠のいのちを生きる弟子に招かれています。

直前ではベタニヤにある友の家を訪ねます。気づかいをし、心配するマルタがいました。熱心さのあまり、妹に不満を抱きます。イエスのみもとで静まるマリヤを挟み会話が続きました。マリヤのときを取り上げてはならない、とイエスはマルタに言われます。忙しすぎるマルタに、いのちのことばを聞く間がありません。今は、みことばに聞き入ることが、唯一必要なことです。

イエスは、律法の専門家へ「あなたも行って同じようにしなさい」と促すこともあり、マリヤのように、静まって聞き入る大切さを強調するときもあります。どちらかではなく、状況でいずれもあります。振る舞いを決めるのはイエスにあります。自分が動き、静まるのではなく、イエスとの関係性が振る舞い方の起点です。自分たちの振る舞いを、イエスに在って思う大切さを示されたのではないでしょうか。

弟子訓練

祈りを教えてください

次の訓練です。イエスの祈る姿を見た弟子のひとりが、祈りを教えてくださいと願います。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください、と願います。イエスの弟子となる前から祈りは身近でした。神殿があり、季節の祭りを祝う民は祈りに包まれる生活であったでしょう。

祈りは万人に与えられた特権です。自然災害で、多数の命が奪われた日を思い祈ります。戦禍で命奪われた人々を想い黙祷します。もみじの葉のような幼子の手が合わされ、祈る姿も見ます。子供や大人まで、祈りがあります。

そのなか弟子たちは教えてくださいと願います。自然に身についたもの、イスラエルで聞いた祈りではありません。イエスの祈りを見て、聞いて、祈りが終わると直ぐに、私たちに教えてくださいと願います。自分たちに無かった祈りをイエスに聞きます。聞かなければ聞こえてこなかったイエス先導の祈りです。祈りはイエスを聞くことから始まります。

弟子訓練

祈るイエス

「そこでイエスは、彼らに言われた。『祈るときには、こう言いなさい。』」

イエスは、書き方や説教の教えはされませんでした。しかし、弟子たちの願いにこたえ、祈りを導きます。祈りについではありません。「祈るときには、こう言いなさい」とご自身が祈りの先頭に立ってくださいます。すべてに祈りが必要であることを示します。それゆえ、先頭に立ってくださいます。親が口移しで糧を与えるように祈りを導いてくださいます。

聞いてくださるお方がいます。あなたのそのままで、こころからの思いを神に届けられる祈りの場に招きます。その場にいっしょに立ち、祈るイエスです。その後を、弟子たちはなぞるように祈ったでしょう。私たちも、イエスが「祈るときには、こう言いなさい」との導きを聞きながら祈ります。イエスが先に祈っておられることを実感し、祈れる幸いに与ります。

祈りの第一声が「父よ」、です。父と、呼び掛けに弟子たちは驚いたでしょう。「父」の呼びかけで新しい天が開かれたでしょう。汚れと咎多き者たちが、「父」と神を呼ぶのです。神を見たら生きられない、滅びるしかない罪人です。ある方は、腐った滅びゆく罪人、と祈り手を表現しました。

しかし、この惨めな存在が神を「父」、お父様、お父ちゃんと幼子が呼ぶように呼びます。祈りの先陣をきってくださったイエスのお陰です。祈りは恵みです。そうでなければ、「父よ」と呼ぶことは不可能でした。しかし、今ここで神の子等の実態が、「父よ。」の呼びかけで明らかになります。 

弟子訓練

御名があがめられますように

「御名があがめられますように。」神が神であられますように、と祈ります。御名を呼ぶ、そこに父なる神がおられます。祈りを誰より集中し、聞き耳をたててくださるお方です。父なる神の眼差しのなか、御父の栄光を見ます。その栄光に包まれるよう願い祈ります。祈る私を先ず、あなたをあがめる子とさせてください、と祈ります。

そして、「御国が来ますように。」祈る者は帝国の占領下、辛く不安と恐れのなかです。メシアを待望しました。今こそ私たちを解放し、国を再興してください、と祈りたい者たちの願いです。御国到来を宣言し、現実化するイエスが「御国が来ますように」、と祈ります。この祈りは、弟子たちの祈りだからです。キリスト者の祈りです。「御国が来ますように、」と祈ろうと巻き込みます。私から、神のご支配が始まり、御国が来るよう祈ります。

「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。」荒野体験をされたイエスが、糧の必要を父に届けてくださいます。生きる糧を祈らざるを得ない現実を、イエスは祈ります。この糧は私たちとあります。周りに、目が届かないところに今日の糧を必要とする人々がいます。だから、「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。」

終わりに、罪無きお方が、罪の現実を祈ります。「私たちの罪をお赦しください。」祈る私たちの罪です。神に背を向ける罪です。御国到来の祈りと真逆を歩む罪です。先ず私の罪からお赦しください、と祈ります。

あなたの御前でこそ、私の罪の本性が露わになります。自分で、自分の罪深さを知ることなど、まことにいいかげんです。ですから、父よ、あなたに祈ります「先ず私の罪をお赦しください。」私たちに負い目のある者を赦す自由が生まれます。あとは、罪に陥ることのないよう宜しくお願いします。「私たちを試みに会わせないでください。」アーメン!

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください