教会の権威は、中世1,000-1300年の期間に最高点に達しますが、中世のヨーロッパ社会の発展の中で、教会の権威の発展だけを切り取って理解するのは、不可能なことです。なぜなら、中世の教会の権威は、ヨーロッパの経済的な成長と封建制道と共に確立されたからです。またこの時期には、ローマ・カトリック教会の特異な教理が定着されました。この記事では、教会の権威が急激に発展した経緯について解説します。

中世の封建制度の確立
中世の封建制度は、産業の中心であった農業の発展が核となり確立されていきます。11世紀に入ると、馬や牛が農業に活用されるようになり、荷車や風車が発明されて農業の発展に貢献していきました。この農業の発展がどのように封建制度の確立に貢献したのでしょうか。封建制度の発展においても、キリスト教が中世ヨーロッパ全体を括っていたことを覚えておきましょう。
荘園制の確立
中世ヨーロッパの封建社会において、主君は家臣に封建的義務に従わせるために封土(土地を貸与)や公権や収入を与えて、主従関係を結びました。封土には、耕作者として農民も含まれていたので、主君の家臣は領主として荘園内に農民を支配するようになったのです。
この時代の農民は、農奴と呼ばれ家族、住居、農具の所有権はみとめられていたものの、他の土地に移動したり職業を変えたりする自由は与えられていませんでした。農奴は、保有地の地代として生産物を納めるほか、週2日は領主の土地を耕作することを義務付けられていました。
荘園制は、社会の底辺の人々にとって他国人から自分の身を守るために役にたっていました。領主が農奴を保護し安全な暮らしを与える代わりに、農奴は領主に絶対的な忠誠を誓う主従関係にあり、中世の封建制度の土台にもなったと思います。
階層制の確立
荘園制の確立は、同時に中世ヨーロッパの階層性の確立にもつながりました。国王を頂点に、伯を名乗る貴族、貴族の家臣が中小の諸侯、諸侯の家臣が騎士、騎士の家臣が農奴のような底辺層の人々でした。
11世紀以降、国王と貴族を除く社会階層には、3種類(働く人、祈る人、戦争に行って戦う人)の人々がいると考えられるようになっていきます。また騎士道が発達したのもこの時期です。騎士の武術や馬術が尊ばれ、騎士が弱者を守り悪を負かす正義の味方のような存在としてヒーローかされていったのです。正義のために戦う騎士道の概念は、キリスト教の影響によって発達したものと考えられます。

国家と教会の共存共栄の関係
10世紀にイスラムの人々がヨーロッパ全土に移住および侵入してきました。侵入者たちから自らを守るために、徐々にイングランド、フランス、ドイツ(神聖ローマ帝国)といった中世国家のモデルとなる王国が形成されていきました。
特筆すべき国家は、神聖ローマ帝国です。非キリスト教民族の侵略から守り組織的に防衛し、リーダーシップをとったのが、コンラート家でした。この家系の長男オットー1世が、権威の継承を引き継ぎ神聖ローマ帝国の支配が始まりました。
歴史の歯車がオットー1世に傾け始めます。当時、ローマ・カトリック教会は、教会の支配領域が周辺の貴族によって侵害されて苦しんでいたのです。このような時にオットー1世は、ローマ・カトリック教会の危機を救い、結果的にイタリアを支配するようになります。その見返りに、教皇はオットー1世を皇帝として神の名によって戴冠したのです。
ちなみに神聖ローマ帝国の名前の由来について説明しておきます。古代ローマ帝国のようにヨーロッパ全体を支配する野望ゆえに、「ローマ」が付け加えられたようです。帝国の権威は、神によって与えられているという印象を植え付けるために、「神聖」が付け加えられました。
このように、教会の権威と国家権力は、共存共栄の関係によって成り立っていました。教会はヨーロッパのすべての教会を配下に置くために、帝国の力を必要としていたわけですが、他方、帝国は全土を支配するために教会の力を必要としていたのです。

ローマ・カトリック教会の権威
ローマ・カトリック教会は、11世紀に入るとその権威を一段と強め始めます。その第一歩が、グレゴリウス7世教皇の改革です。この世に対する教皇の絶対的な霊的権威を宣言したのです。どのようにグレゴリウス7世は、絶対的な権威を手に入れたのでしょうか。その経緯を説明します。
諸侯(君主に仕える貴族)は、君主が支配する国家内で、一定の領域を支配する権威が与えられていました。諸侯は、自分の土地に教会堂を建て、司教や修道士を叙任(任命)するようになっていました。
このような状況下の中で、1076年に教皇と皇帝の間に叙任権闘争が起きます。神聖ローマ帝国の皇帝ハインリヒ4世は、自分の帝国内の教会の司教叙任を行ったのです。これに対して、グレゴリウス7世教皇は、ハインリヒ4世に罪を悔い改めを求めたのです。ところが、ハインリヒ国王は、諸侯を集めて教皇の廃位を決議したと宣言しました。国王の強硬策は失敗に終わります。教皇は、国王を廃位させ教会から破門したと内外に知らしめたのです。結果的に、国王は帝国内でも孤立した状態になり、教皇に謝罪するためにローマに行きました。教皇の住まいの城門の前で、雪の中3日間、素足で断食と祈りをしてやっと破門が説かれたのです。

ローマ・カトリック教会の教理と慣習の発展
- 免罪符:罪の償いを軽減する証明書。十字軍に従軍することにより罪が免罪され、十字軍に出兵できない人たちのためには、教会に献金することにより免罪されてました。信じがたいことですが、免罪符は実質、お金で売買されていたのです。免罪符の普及が信者の間に拡大されるように、キリストの本来の教えからほど遠いものとなり、16世紀の宗教改革のきっかけをつくっていたと思われます。
- 煉獄:罪を犯した人々が、死後、天国に入る前に行く場所。そこでは天国の恵みにあずかるために浄化の苦しみを受けると教えられています。また煉獄にいる霊魂は、自分で罪を償い事ができないので、地上の信者が死者の救いのために祈り礼拝(ミサ)をささげました。
- 聖母マリア:1000年前以降、キリストの母マリアは聖母マリアとして礼拝の対象になりました。
- 修道院:修道院制度は5世紀に始まり、11世紀には修道院の最盛期になりました。この時代にドミニコ修道院とフランシスカン修道院のような新たな修道院が生まれました。
ヨーロッパ全体を巻き込んだ十字軍
イスラム教支配下になっていたエルサレムを奪還するために、クリスチャンによる軍隊が編成され軍事行動が起きました。十字軍の遠征とも呼ばれますが、これはどのように始まったのでしょうか。
十字軍の背景
11世紀に入り、聖地巡礼が信仰の証として行われるようになりました。しかし、3つの巡礼地(ローマ、エルサレムとサンティアゴ・デ・コンポステーラ)の内、エルサレムとサンティアゴ・デ・コンポステーラには多くのイスラム教徒が住んでいました。これらの状況を見た一部の修道僧たち、クリュニー修道院が中心となって国土回復運動を起こしました。
ヨーロッパにおいては農業、工業、貿易が発達するとともに、急激に人口が増加しました。この人口の増加と共に、キリスト教はローマ帝国全体に広がっていったのです。
一方では、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)ではイスラムとの紛争が長期化していた。ビザンツ帝国にイスラム化したトルコ人の集団であるセルジューク朝が、ビザンツ帝国に攻め寄せてきたので帝国の諸侯は1095年にローマ教皇に助けを求めました。この機会はギリシャ正教とローマカトリック教会を統合させる絶好のチャンスと見てとったウルバヌス2世は、教会会議を開き十字軍の編成を宣言したのです。これが十字軍の遠征の始まりでした。
十字軍の遠征の歴史
次に十字軍が聖地回復のために送られた歴史を年代順に挙げてみます。
- 第1回十字軍遠征(1096-1099年)ビザンツ帝国の皇帝アレクシオス1世の依頼により、1095年にローマ・カトリック教会教皇ウルバヌス2世がキリスト教教徒に軍事行動を呼びかける。この出兵に応える者は、罪の償いの免除が与えられると宣言した。この呼びかけに応えた騎士たちは、イスラム教の都市の人々を虐殺、レイプ、略奪を繰り返しながらエルサレムを目指した。この遠征の結果、1099年についにエルサレムの制服に成功した。
- 第2回(1147ー1148年)エウゲニウス3世教皇。
- 第3回(1189-1192年)1187年、90年ぶりに、イスラム教徒がエルサレムを奪還。グレゴリウス8世教皇が、聖地奪還のために十字軍を編成。
- 第4回(1202ー1204年)インオケンティス3世教皇。
- 第5回(1218-1221年)
- 第6回(1248ー1254年)1244年にエルサレムがイスラム教徒によって占領される。キリスト教徒2000人余りが殺される。フランスのルイ9世と十字軍が遠征するが、敗北して捕虜になってしまう。莫大な賠償金を払って釈放される。
- 第7回(1270年)フランスのルイ9世が再度出兵したが、途上で死去。聖地回復の夢は完全に途絶えた。
十字軍の遠征の影響
十字軍の遠征は、東方の文化と文物が西ヨーロッパに到来するきっかけになりました。東方の優れた城郭を実地に見た諸侯たちは、東方に倣い改良した城郭を西ヨーロッパ各地で建てるようになります。また東西の人口の行き来が多くになるにつれ、貿易が盛んになり北イタリアの諸都市が貿易を通じて莫大な富を蓄えることになったのです。
一時的に教会の威信を高めましたが、後期の十字軍遠征以降、次第に教会の影響力と指導力が弱まり、国王が教会よりも相対的に力をつけていくようになりました。教会のモラル、道徳観、倫理観は地に落ちていき、宗教改革の下地を作っていったのです。
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