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コンテンツへスキップ 投稿日:2025年9月20日/更新日:2025年10月22日

世界遺産は人間の罪を象徴している3つの理由

高見を目指す

2013年に富士山が世界遺産になりました。多くの人たちが手放しで喜びました。大勢の観光客が来るのを見込んでいたからです。その目録通りに多くの観光客が富士山を訪れています。しかし、観光客によって富士山が汚されている多くの弊害が出ていると聞きます。地元の人たちは、観光客対策で追われ、喜びが苦しみに変わってしまっているようです。人間の罪について世界遺産の功罪という観点から考えてみます。

罪深い人間は世界遺産で栄光を求める

世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。創世記11章1-9節 聖書協会

古今東西、人間は自らの栄光を求めて生きています。旧約聖書からの例から紐解いてみましょう。創世記11章によれば、人々は自分たちの名声を世に知らしめるために、天にも届くような高い塔を建てようとしました。バベルの塔です。このような事例は、世界中の巨大な古代遺跡に見ることが出来ます。人間たちの名声欲を証明しています。

現代社会における人間の名声欲、栄光を求める欲望も変わりはありません。世界各地にある歴史的建造物や自然が造った類稀な現象や雄大な大自然が、世界遺産として登録されています。実は、それらの世界遺産は元々、創造主なる神様によって造られたものなのです。人間が建てた建造物でさえ、それを造るための木々や石がなければ人間は建てることは出来ないのです。

人間はただ単に自分自身の栄光を求めているに過ぎません。世界遺産になることを祝い、またお互いに競い合っている人間たちの愚かさはどんなでしょうか。

世界遺産

罪深い人間は自ら選んだ世界遺産を汚す

人間は、自分たちで選んだ世界遺産を自らの手で汚しているのです。数年前、世界遺産がブームのようになりました。日本の各地の有名な寺院や自然が世界遺産に登録され続けたのです。その度に歓喜の声が上がりました。そのような観光地でお土産物や飲食で生計を立てている人たちにとっては、朗報だったに違いありません。

しかし、今は外国人の観光客が多すぎて、世界遺産の地域を汚していく、傷をつけたりダメージを与えているという状況にあると聞きます。これは皮肉なことです。人間の罪深さが、人類が誇るべき世界遺産に現れているのです。

世界遺産

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしてあげなさい。これこそ律法と預言者である。マタイ7章12節 聖書協会

もっとも重要な戒めとして次の2つを挙げています。

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」マルコ12章29-31節 聖書協会

多くの人たちは、神様の御心から離れてしまい、隣人愛をまったく忘れています。日本人的な思いやりの心も、日本人自身が忘れているのかもしれません。多くの人々は日本人も外国の方々も含めて、人の知識や知恵でこの世の中が成り立っていると考えています。世界遺産が登録され歓喜の声を上げても、人間は実のところ自ら苦しみを抱え込んでいるのです。

世界遺産

罪深い人間は神の創造を汚す

2025年の夏では、長い灼熱の月日が続きました。もう毎年の事など暑い夏は慣れましたが、今年は特に暑かったように思えます。しかし、このような地球温暖化はなぜ起きているのでしょうか。私たち人間が、神が創造された自然を破壊しているからです。

人間は、自ら選んだ世界の名所を汚し傷つけ、罪を犯していますが、実は神の創造そのものを汚しているのです。ところがその罪にさえ気づかないのが私たち人間です。

世界遺産が文化的遺産であろうと、神の創造から生まれた自然の遺産であろうと、私たち人間がそのような場所を訪れる時、お互いに敬う心が必要だと私は思います。たとえそれがキリスト教以外の宗教であっても、その人たちの文化を敬うべきではないでしょうか。それが隣人愛の実践だと管理人は思います。


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